連帯責任が問われる3つの条件

連帯責任に関する研究の中で示唆に富んでいるのは、政治哲学領域におけるJuha RäikkäやDavid Millerによるものである。「なぜ学校の部活だけが『連帯責任』を問われるのか…同志社大アメフト部が果たすべき『本当の責任』を問う」でも紹介したが、集団において連帯責任が問われるのは、以下の3つのいずれもの条件が満たされているにもかかわらず、当該行為に対して反対の行動をとらない場合である。

①深刻なリスクなしに、反対する機会を持っている。
②容易に入手できる知識によって、反対する機会を持っている。
③反対することが完全に無益なものでなく、何らかの貢献ができる見込みがある。

ジャニーズ事務所の関係者は「②容易に入手できる知識によって、反対する機会を持っていた」と言える。なぜなら、成人が未成年に対して性的行為を行うことは許容されず、かつ、同意のない未成年に対する性的行為の強要が、許容されない卑劣な行為であることは容易に知り得るためである。

また、ジャニーズ事務所の関係者は「③反対することが完全に無益ではなく、何らかの貢献ができる見込みがあった」と言える。確かに、マスコミが情報の隠蔽いんぺいや操作に加担することを予想し、反対することが無益であると考える可能性もありえる。

しかしながら、判断能力のある成人があらゆる手段を講じて反対の意思を示すことは、なんら無益ではない。ジャニーズ事務所やマスコミに対して絶大な権力者であったジャニー喜多川氏に反対の意思を示すことは、性加害を完全になくすことはできないとしても、抑止することで何らかの貢献ができた可能性はある。

問題は①の「深刻なリスク」を所属タレントを含む事務所関係者が持っていたかどうかだ。

告発はできなくとも「不必要な称賛」は必要なかったはず

ここで強調しておきたいのは「反対の行動に出る」というのは、必ずしも内部告発のようなものに限らないということだ。

内部告発は、時に告発者に深刻なリスクを与える。権力者であった喜多川氏に直接的に歯向かうことは、ジャニーズ事務所から排除されて芸能界から追放されるだけでなく、身に危険が及ぶ可能性もあったかもしれない。喜多川氏による性加害を告発することが、仮に命の危険にさらされるほどの重大なリスクを伴ったとすれば、反対の行動を起こすことができなかったとしても、連帯責任を問うことは酷である。

しかし、内部告発以外にも弱い「反対の行動」は存在する。その一つが、「不用意に加害者に賛同しないこと」だ。今回の事例に当てはめれば、芸能界追放のリスクを考えて喜多川氏の悪行を訴えることまではできなくとも、テレビ等で喜多川氏の人格を称賛する発言を行わないという選択である。

だが、実際はどうか。筆者はこれまで、同事務所に所属する売れっ子のタレントたちが喜多川氏の人格を称賛し、喜多川氏との思い出を楽しそうにテレビで語る姿を、長年にわたって見聞きしてきた。ネットをたたけば、喜多川氏を「お父さんのような人」「優しい」「感謝している」などと称賛するタレントの声はいくらでも見つかる。

これらが喜多川氏による性加害の実態を知った上での発言であったならば、タレントたちに対し責任が全くないと言えるのだろうか。