大将と軍師との間に生じた考え方の違い

そうした2人の心が、一度だけ掛け違ったことがある。慶長5(1600)年、秀吉の遺児である秀頼を守り立てることが、上杉家の信条である私利私欲を排して公のために尽くす「義」に通じると旗幟鮮明にしていた景勝や兼続に対して、「謀反の意図あり」と難癖をつけた徳川家康が、越後から移封されていた会津に大軍を率いて攻めてきたときのことだ。

神算鬼謀(しんさんきぼう)の軍師でもある兼続は、白河に東西5キロメートルにわたる防塁を築いた。そこにおびき寄せて、一気に叩く作戦を立てたのだ。三方を山に囲まれて袋小路のような地の利を活かせば、劣勢の上杉軍でも五分と五分以上の戦いができる。

ところが、先鋒が白河まで約80キロメートルの下野国小山まで来たとき、石田三成が大坂で挙兵したことを知った家康は即座に軍勢を西へ返してしまう。すぐ兼続は、徳川軍を追撃するよう主張したのだが、景勝は認めなかった。大将と軍師という立場の違いからズレが生じたのだ。

大将は、いつも組織全体のことを考え、うまくまとまっていることに喜びを感じるもの。組織のなかには、いろいろな人間が存在する。ときには諍いも起きる。それらをまとめていくのには、弱い者を守り慈しむ「仁」に裏打ちされた清濁併せ呑む度量の大きさが求められる。

一方、軍師は自分の知恵の素晴らしさを確かめたいといつも願っている。そして、自分の立てた戦法が図に当たったときに一番の喜びを感じる。それには、どうしても兵を動かしていたい。そのような欲求に兼続もかられていたのだろう。

もし、追撃して家康の本拠地である江戸で戦うことになれば、地の利は相手のほうに移る。さらに、家康と通じた伊達政宗が、上杉軍の背後を突いてくる恐れもある。「大博奕を打って後ろから襲いかかったものの、大敗を喫するような恥ずかしい戦はできない」と景勝は考えたのだろう。事実、景勝の戦いぶりを見ると一度たりとも博奕を打ったことがない。

天下の形勢が固まった後、景勝は会津120万石から米沢30万石への大減封という忍従を家康から強いられる。その命を受けた景勝は「武家の衰運、今において驚くべきにあらず」と語った。「仁」に基づいた覚悟のうえでの決断だったからこそ、粛々と受け入れられたのだ。

先の小早川隆景と黒田如水の話には続きがある。「どのような基準で判断していれば間違わないのか」との如水の問いに、隆景は「仁愛をもとにしている」と答えたという。隆景と同じく「熟慮」と「仁」という2つの軸を持った景勝だからこそ、自らの筋目を通しながらも乱世を生き抜き、後に上杉鷹山という名君を生む上杉家を残すことができたのだ。

ビジネスリーダーの使命の一つがゴーイングコンサーン(企業の存続可能性)の追求だ。景勝の生き様には、お手本とすべきことが数多く含まれている。

(伊藤博之=構成 川本聖哉=撮影)