第一次上海事変における「肉弾三勇士」

これに対して陸軍でよく取り上げられた自己犠牲の戦例は、昭和7(1932)年2月の第一次上海事変における「肉弾三勇士」となる。

上海郊外の廟行鎮にあった堅固な敵陣地を攻撃する際、陣前に設けられた鉄条網を爆破処理して突撃路を啓開することとなり、工兵第18大隊(久留米)がこれに当たることとなった。このとき、江下武二(佐賀)、北川丞(長崎)、作江伊之助(長崎)の3人の一等兵は、点火した破壊筒もろとも鉄条網に身を投げて突撃路を啓開すると同時に爆死した。これぞ「犠牲」をモットーとする工兵魂の発露とされて、死後、3人は二階級特進して伍長に任じられ、広く軍神として報道された。

ところが、工兵科の元締めとなる教育総監部の工兵監部は、この戦闘について冷静な判断を下した。このような状況に際しては、滑車とロープを携行した将校が一人だけで挺進し、滑車をより深い位置に引っかけ、爆破筒の後ろに結んだロープを操作して爆破筒を送り込んでから点火して障害物を処理すべきだった。

それなのに兵卒を自爆の危険にさらすとは、技術によって歩兵を支援する工兵の本領に反するという見解だった。そして、世間が「肉弾三勇士」ともてはやすのは嬉しいことにせよ、工兵監部としては工兵第18大隊に部隊感状を授けることに反対だとし、部隊感状は授与されなかった。

(大東京)國の華忠烈肉彈三勇士の銅像、青松寺(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

真珠湾に向かった搭乗員は落下傘も海図も持たなかった

太平洋戦争開戦時に軍令部第1部長だった福留繁は、自著のなかで「全海軍は最初から特攻的決意を以て此の戦争に臨んだ」(福留繁『史観・真珠湾攻撃』自由アジア社、1955年)と記している。事実、真珠湾に向かった搭乗員は全員が落下傘を携行しなかった。また、収容時の空母の位置を記入した海図も敵手に落ちることを考慮して、母艦に残していった人がほとんどだったという。日本としては乾坤一擲の開戦の初動、だれもが生還の道を自ら断ち切って真珠湾に向かったわけだ。

第一次と第二次攻撃で真珠湾に殺到した日本機は合わせて340機、搭乗員は745人だった。そして未帰還機は29機、戦死・行方不明者は54人を数えた。僚機が確認した自爆機は12機にものぼるという。

当初から生還が憂慮されていた甲標的(特殊潜航艇)は5隻だったが、すべて未帰還となった。魚雷を発射するたびに水面から1メートルも跳び跳ねて後進もできない潜航艇が、空襲されている敵の港湾に潜入して無事に帰還できるはずがない。潜航中の潜水艦からの発進や連続潜航時間を延ばすなどの工夫をこらしたが、限界というものがある。

生還が望めないので一時は作戦取り止めかとなったのだが、搭乗員など関係者の熱情にほだされた山本五十六長官が涙を呑んで許可したとされ、これまた「山本神話」の一つとなった。