なぜ日本人は「特攻」を美談と認識してしまうのか。軍事史研究家の藤井非三四さんは「日本人は『どうせ戦死するならば意味があり名誉のある死所を求めよう』という心情に陥りやすい。その結果、手段と目的が入れ替わって、『特攻』が評価されるようになったのではないか」という――。
※本稿は、藤井非三四『太平洋戦争史に学ぶ日本人の戦い方』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
日露戦争の「旅順口閉塞戦」での自己犠牲
戦前の日本でもだれもが拳拳服膺していたわけではないだろうが、少なくとも自らの意志で陸軍士官学校や海軍兵学校など武窓に進んだ者は、明治15(1882)年1月に発布された『軍人勅諭』の一節、「己が本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽し」との精神こそが武人の心得だとしていたはずだ。そしてこの一節こそ、さまざまに論じられてきた「特攻」について探る糸口となるだろう。
なお、この『軍人勅諭』の一節は、司馬遷の『報任安書』にある「死或重於泰山、或軽於鴻毛」=[死はあるいは泰山より重く、あるいは鴻毛よりも軽し]が出典だ。このような自己犠牲の精神を具現するよう将兵に求めることは、軍隊という組織では当然のことだ。
この精神を具現した好例として日本でよく取り上げられるのは、日露戦争中の明治37(1904)年2月末から5月初旬にかけて行なわれた三次にわたる旅順口閉塞戦だ。旅順要塞の強力な火力で防護されている港湾の出入り口に突入して、船舶を自沈させて敵艦を封じ込めるというのだから、これこそまさに決死行だ。
この作戦に二度も加わり戦死した広瀬武夫少佐(大分、海兵15期、水雷)は軍神と称えられて、その最期は小学校唱歌ともなった。このときに広瀬少佐と行動をともにして行方不明となった杉野孫七上等兵曹(三重)の長男、杉野修一大佐(三重、海兵46期、砲術)は太平洋戦争に出征しており、戦艦「長門」の最後の艦長だったから、海軍士官にとって広瀬少佐のことはそれほど古い昔話ではなかった。