家康と築山殿の息子・信康にも男色エピソードあり

築山殿の子であり母親と運命を共にした家康の嫡男絡みでも有名な逸話がある。

図版=「松平信康の肖像」(画像=勝蓮寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

三河の佐橋甚五郎は、徳川家康の長男である三郎信康(松平信康)に小姓として仕えていたところ、あるとき出奔して甲斐の武田勝頼に仕官した。

だが、今度は武田家臣の甘利三郎次郎を殺害して刀を奪い、徳川家に帰参を願い出た。しかしこうした「悪事」がばれてまた逐電したという(「佐橋家系図」)。

この甚五郎、別の記録を見てみると、その経歴は男色に彩られている。『参河後風土記』(巻十六)は、甚五郎が「美童にて信康卿(に)寵愛」されたとあり、さらには武田家で勝頼に寵愛され、元服後も奉仕し続けたという。

しかし勝頼の小姓である甘利二郎三郎なる「無双の美童」にしつこく言い寄って断られ続けたため、恨みのあまり遠征先の陣屋で寝首を掻いた。それだけでも重罪だが、甚五郎は甘利の刀がとても立派だったので自分のものと取り換えて、その首を持ち帰り、家康に献じてしまった。そういう性格の悪さが嫌われたという話となっている。この逸話も後世の創作であろうが、ちょっと異質な人物像が興味深い。

信康とも武田勝頼とも関係した佐橋甚五郎は実在したか

このように江戸時代成立の戦国時代を舞台とする編纂物には、物語に都合よく美童が現れて寵愛され、そして騒動を巻き起こす〔その役割を担わせるため、当時実在したかどうかわからない「渡り小姓(奉公先の国をころころと変える少年の侍)」のような役割設定まで作られている〕。そして彼らの逸話は、美談とは程遠い不道徳なものに仕立てられることが多い。大名と正室や側室には、子を作り、大名の家政を支える役割があるが、美童にはそれがない。組織の異物である。

ゆえに風当たりも強く、好色は身を滅ぼすから気をつけておけと言わんばかりの物語にされがちなのである。