秀吉から学んだ「天下の盗み方」

凡人には不可能なことを、やすやすと実現する人のことを「天才」と呼びます。

信長も秀吉も、ある種の天才でした。しかし家康は、違います。この人は凡人ですが忍耐の人であり、天才がすることを学び、独自の勉強法をもつ人でした。

「天才」信長や秀吉の実際の行動をつぶさに見て、学ぶべきところを学びました。

秀吉から学んだのは、「天下の盗み方」そのものです。その手段としてきもに銘(めい)じたのが、“スピード”でした。

織田家の方面軍の司令官――その一人にすぎなかった秀吉が、あっという間に主家を乗っ取ってしまった首尾は、一見マジックのようですが、事に臨んでスピードを最優先させたことは明らかです。

客観的に見れば、信長の一家臣である秀吉よりも、信長と同盟を結んでいた独立大名である家康のほうが、本能寺の変後、信長の後継者となるべき資格を備えていた、といえるかもしれません。

それにもかかわらず、秀吉に先を越されてしまいました。

その悔しい思いは、長く家康の胸の底にとどめおかれたことでしょう。しかし、家康はあわてません。領主不在となった甲斐の制圧に乗り出していきます。

甲斐侵攻のかたわら、信濃侵入にも着手して、7月に入ると家康自らも出陣しています。

これにより家康は、甲斐と佐久郡以南の信濃を領地に加え、それまでの三河、遠江、駿河と合わせて、5カ国を有する大大名へと歩を進めていきます。

四天王の1人、若き井伊直政に武田旧臣117人の与力よりきをつけたのは、このときのこと。

武田家には飯富虎昌おぶとらまさ山県昌景やまがたまさかげ(二人は実の兄弟)が率いた「赤備え」が有名でしたが、家康はこれにあやかって、井伊家の新鋭部隊を全員朱色の甲冑とし、“井伊の赤備え”と呼ばれる最強軍を再編成したのでした。

なぜ自分の命を狙った男を登用したのか

三河一向一揆で一揆側の軍師として、家康をさんざん苦しめた本多正信が、家康の「一切の罪は問わぬから帰参せよ」との呼びかけにも応じず、その後も一向一揆の幹部として各地で戦い続け、親戚筋の大久保忠世のとりなしにより、「帰り新参」で徳川に戻ったのは、一説によれば、伊賀越えの少し前のことでした。

本多正信の肖像画。(写真=藩老本多蔵品館/PD-Japan/Wikimedia Commons

この正信は、家康の謀臣として、ずばぬけた能力をもっていました。

伊賀越えで九死に一生を得た際に、家康は「こいつは使える」と正信を認めた、といいます。

三河武士は忠誠心、結束力、戦闘力に優れているといわれますが、これは家康の勉強法の成果によるもの。元来は視野が狭く、まとまりも悪ければ、華やかな外交や緻密な折衝にも向いていません。

「文句があるなら腕で来い」といったタイプの武人ばかり――。

そこに、広く世間を見てきた正信が帰参し、彼には他の家臣たちにはない能力がある、と家康は気づいたのでしょう。

伊賀越えでは、地元の人々を懐柔するため、金もいたでしょうし、偽情報も流布したでしょう。それらはみな、正信が主動してやったといわれています(新井白石『藩翰譜』)。

また、家康が旧武田領を併合すると、旧武田家臣団を取り込み、甲斐・信濃の統治を担当する仕事を見事にやり遂げてもいます。

なにより、もし正信がいなければ、家康は関ヶ原の戦いで勝てなかったかもしれません。