「情理」と「合理」で働き掛ける

ジョン・F・ケネディ元大統領は、日本で最も尊敬する人物として、米沢藩の名君である上杉鷹山を挙げました。鷹山は人々に「情理」と「合理」で働き掛けることで、改革を成功させた人物です。

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江戸時代、米沢藩は倒産状態にありました。貧しさや凶作・飢饉のために13万人強だった人口が10万人弱にまで減少。

絶望した領民が次々に藩を逃げ出す状況で、鷹山は17歳で藩主となります。藩政改革の目的を「領民を富ませるため」と決め、その改革の根底に「愛と信頼」を据えます。

藩主となり初めて米沢藩を訪れた際、役人の嫌がらせもあり、宿泊場所が見つかりませんでした。鷹山は家臣たちの寝る場所もないとわかると、寒い冬の日でも自ら進んで野宿をします。

宿の手配をできなかった部下を責めることはなく、仲間たちのために酒を調達すると、自ら全員にお酌をしながら労を労ねぎらいます。

変化を嫌う古参の武士たちに何度も改革の邪魔をされ、苦しい経験をしますが、鷹山の愛と信頼をもとにした行動が、少しずつ人々の心の変化を生み出します。

ただ、このように「情理」だけで訴えていても、単なる夢想家でしかありません。「本当にそれが実現できるのか」という「合理」の部分を、ロジカルな道筋で説明できなければいけません。

自らの生活費を前藩主の7分の1に切り詰めた理由

江戸時代の幕府や他藩の改革のほとんどが失敗に終わったのは、倹約令の強化によってコスト削減を図る一方で、収益増加のために増税し、領民の生活だけを苦しめたことが原因でした。

鷹山のアプローチは、課題の背景にある真因の徹底的な理解と、その解決のための打ち手をゼロベースで考える徹底された合理的思考です。

藩の歳出を抑えるため、自らの生活費を前藩主の7分の1に切り詰め、藩を挙げての大倹約に取り組みます。そして、米作に向かない米沢藩の土地の特性を理解し、米以外の農産物を育成します。

また、他藩へ原料として安く販売していたものを自藩で製品化し、付加価値を上げて販売することで、藩の収入を増やします。足りない技術は他藩から技術者を呼び寄せて補い、足りない労働力は農民以外の人出を募るなど、打ち手を次々と実行します。

改革が功を奏し、東北を中心に何百万人もの餓死者が出たといわれる天明の大飢饉でも、米沢藩の餓死者ゼロで乗り切ります。72歳で亡くなる頃には、藩の借金をほとんど返し、農村の復興を果たしました。