近くの公園でスミス氏は、ベンチに掛けながら1枚の写真を見せられた。女性は自分もロシア側の諜報員であると明かしたうえで、ロシア大使館に潜り込んだ「モグラ(長期にわたり組織に潜入するスパイ)」を探すため、スミス氏の協力を求めているのだという。

さすがのスミス氏も、これには警戒したようだ。ガーディアン紙によるとスミス氏は次のように答え、協力要請への回答をひとまず保留した。

「とある人物と、まずは話す必要がある。その人物の確認が取れ次第、またあなたに連絡しましょう。私は、いま働いている馬鹿みたいな組織を、信用していない。あなたはMI5やMI6を信頼していますか? 言っておきますが、あなたがこうした組織で働いていることすら考えられる」

警戒心が裏目に出た

女性がMI5の手先ではないかと疑った点において、スミス氏は相当に鋭い勘を働かせた。だが、詰めが甘かったようだ。

イギリス大使館を公然と見下し、ロシア側情報組織の「ある人物」とのパイプを匂わせたこの発言を、諜報員の胸元に装着した小型カメラがはっきりと捉えていた。

イリナを名乗るこの女性が欲しかったのは、スミス氏の協力ではない。協力要請への反応を収めた証拠映像を収録する――それこそがねらいだったのだ。

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慎重な予防線を張ったつもりのスミス氏だったが、つまるところロシア側のスパイとして自らが暗躍していることを暗に認めた形となった。

ドイツ警察は翌日、公安秘密法違反の疑いでスミス氏の身柄を拘束した。

警備員の立場を悪用した情報収集、9件の罪状で起訴

現在58歳のスミス氏は、イギリスの国防業務を担う職員たちの自宅住所など個人情報や、家族の顔写真などをカメラで撮影し、秘密裏にデータを蓄積していた。

さらに、警備員の立場を利用し、大使館外部から手渡しで持ち込まれる機密書類を不正に複製。これらに加え、パトロール中を装って館内を歩き回り大使館の内部構造を撮影したり、会議室のホワイトボードの内容などを映像に記録したりしていた。

スカイニュースは、イギリスのボリス・ジョンソン元首相に宛てた機密のレターも撮影されていたと報じている。

ドイツ警察がスミス氏の逮捕に踏み切ったのは、2021年8月のことだ。昨年4月、その身柄がイギリスに引き渡された。その後スミス氏は、9件の罪状で起訴されている。

イギリス検察庁のテロ対策責任者であるニック・プライス氏は、ロイターに対し、「ロシア当局に渡すことを目的とした情報収集行為7件、接触の試行1件、ロシア当局の一員とみられる人物への情報提供行為1件に関し、嫌疑が掛けられています」と説明している。