ガーディアン紙などによるとこの作戦の下、スミス氏には偽の情報が与えられていたという。イギリス大使館が氏に与えた指示はこうだ。
ドミトリーというロシア名を名乗る男が、近く大使館の警備室を訪れる。ロシアからの亡命希望者を装って来館するはずだ。しかし、この男は、ロシアから情報を持ち込む目的で放たれた、イギリス側のスパイである。彼から機密文書を預かってコピーを取り、同時に諜報活動に使ったSIMカードを回収して破棄するようにーー。
ロシアスパイに接触し、おとり捜査を実行
イギリス側に有利な情報は横取りし、内通しているロシア将校へぜひとも渡したい。スミス氏にとって千載一遇のチャンスだった。
いよいよ当日になると、スミス氏が勤める警備室の前に、ドミトリーを名乗る怪しげな人物が姿を現した。眼鏡をかけ、ハンチング帽とマスクで目元と口元を隠した、いかにも諜報筋然とした出で立ちだ。
男は小脇に抱えたドイツ紙のディ・ヴェルトを、スミス氏にそれとなく差し出す。一見したところただの新聞だが、記事に紛れて暗号文が仕込まれているのは明白だった。
男が去ると、スミス氏はイギリス大使館の警備室内にて、ひとりロシアスパイとしての行動に着手した。
英スカイニュースによると、スミス氏は大使館で保管すべきコピー1部と別に、ロシア用にもう1部を不正に複製した。破棄を命じられたはずのSIMカードは、大使館から車で40分ほど離れたポツダム市の自宅で密かに保管することにした。
大物を釣り上げたスミス氏は、興奮に震えたことだろう。今日警備室を訪れたドミトリーという男は、愛する祖国・ロシアを裏切り、イギリスに与したスパイだ。そんな憎き相手から諜報活動の成果を窃取し、ロシア将校に渡すことができる。
MI5の仕組んだトラップにはまる
ところがスミス氏は、大きな勘違いをしていた。すべてはMI5が描いたシナリオ通りだったのだ。ドイツ警察と共同で仕掛けた偽装作戦のうえで、スミス氏は踊らされているにすぎなかった。
スミス氏が鼓動を高ぶらせながら複製したディ・ヴェルト紙には、実のところ、何ら暗号など仕込まれていない。ベルリンの街角のニューススタンドにさえ出向けば誰もが買える、機密情報のかけらもないただの日刊紙だ。
あえて言うならば紙面に仕込まれていたのは、スミス氏をターゲットとした罠だった。
BBCによると紙面は随所に、ピンクの蛍光ペンによるマーキングが施されていた。このパターンのマークが付いた同日付のディ・ヴェルト紙は、この世に1部しか存在しない。
のちに捜査当局がスミス氏の自宅に踏み込むと、自宅からはまさにこのマーキングが付いた紙面のコピーと、破棄を命じられたはずのSIMカードが発見された。これらがスミス氏の不正な複製行為の動かぬ証拠となった。