家康が姫路城にかけた期待

関ヶ原合戦後、徳川家康の次女のとく姫をめとっていて、東軍での活躍もめざましかった池田輝政が、論功行賞で三河国(愛知県)吉田15万2千石から大幅に加増され、52万石余りの大身となって姫路に入城する。池田氏は一族で百万石を擁する大大名となったが、それは家康の期待のあらわれでもあった。

池田輝政画像(写真=林原美術館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

交通の要衝である姫路の城主となった輝政は、外様ながら「西国将軍」の異名を得て、秀吉恩顧の大名が居ならぶ西国を監視し、大坂の豊臣秀頼にも目を光らせるという、いわば徳川幕府の最重要任務を課されることになったのである。

そういう前提のもとに、慶長6年(1601)から輝政が築城を開始したのが、いま見る姫路城で、秀吉が築いた天守などが取り壊され、慶長14年(1609)までには現存する白亜の連立天守が完成している。そして、3重の堀を左回りのらせん状にめぐらせ、城下町をも取り囲んだ総構の城の原型がかたちづくられた。

目まぐるしく城主が変わった“たった一つの理由”

しかし、慶長18年(1613)に池田輝政は死去する。家督を継いだ嫡男の利隆としたかも元和2年(1616)に急逝すると、わずか8歳の光政が家督を継ぐほかなく、幼少の藩主では枢要の地は守れないという理由で鳥取32万石に移封されてしまう。そこで、徳川四天王のひとり本多忠勝の長男、忠政が15万石をたまわって伊勢国(三重県)桑名から入封した。

この時代に西の丸があらたに造営されたほか、三の丸の御殿群や各所の枡形ますがた虎口が整備されるなどして、姫路城の全容が整えられた。

ちなみに、本多家も寛永14年(1637)、大和国(奈良県)郡山に転封となって、家康の外孫の松平忠明が入封した。ところが、正保元年(1644)に家督を継いだ忠弘は14歳だったので、4年後の慶安元年(1648)に山形に転封。やはり家康の孫の松平直基なおもとが城主になるが、わずか7歳で死去して7歳の直矩なおのりが家督を継ぐと、越後国(新潟県)村上に転封されている。

代わって徳川四天王の榊原康政の孫、忠次が入封するものの、2代のちの政倫まさみちがわずか3歳だったため、ふたたび松平直矩が姫路城主に戻っている。

こうしためまぐるしい転封と入封は、寛延2年(1749)に、酒井忠恭ただずみが上野国(群馬県)前橋から移ってくるまで繰り返された。

すなわち、「西国将軍」として君臨した池田輝政ののちも、姫路城主は「西国探題」とよばれ、西国大名の謀反を食い止める最前線であり続けたため、譜代や親藩のなかでも重鎮が充てられただけでなく、幼少の城主は置かないという不文律ができていたのである。