「タケノコ3本で騙された」
霞ヶ関通いを続けるうちに、秋元には新線計画の鍵を握るのが運輸政策審議会という運輸省内の審議会であることがわかってきた。運輸の専門家や有識者が集まって10年後の運輸政策をまとめ大臣に建議する組織だ。その中に流山市の隣の野田市に住む人物がいた。
寺田禎之。1959年に大阪外語大外国語学部(ヒンディ語専攻)を卒業し、61年に日通総合研究所入社。この頃は日通のシンクタンクである運輸経済研究センターで働いていた。運輸研究の第一人者だ。ある日、秋元は自宅の裏庭で取れたタケノコ3本をぶら下げて、寺田のオフィスを訪ねた。
地元愛の強い寺田に、秋元は「東葛地区をなんとか発展させましょう」と訴え、寺田を「流山まちづくり委員会」の顧問に引き摺り込んだ。新線を流山に誘致するための「応援団長」に担ぎ上げられた寺田はのちに、「秋元にタケノコ3本で騙された」とあちこちで言い回り、秋元の「タケノコ3本」は地元で有名なエピソードになった。
秋元の期待通り、寺田は八面六臂の活躍を見せた。1986年に流山市、柏市、八潮市、台東区など9つの自治体で作る「常磐新線建設促進都市連絡協議会」が発足し、その下に有識者で構成する交通運輸顧問が創設された。
交通計画学の権威で東京大学名誉教授の八十島義之助、京都大学教授で政策学の泰斗、伊東光晴、元朝日新聞記者で交通評論家の岡並木、元建設官僚で首都高速の建設にも関わった都市計画の専門家、井上孝。錚々たるメンバーを集めたのが寺田だった。
1986年8月には常磐新線建設促進都市連絡協議会の会長である台東区長の内山榮一が、顧問団の意見を元にした陳情書を携えて運輸大臣の橋本龍太郎と面談。党内きっての実力者だった橋本から「新線の建設は緊急課題の中でも特に喫緊な路線である」という言質を引き出し、新線建設はいよいよ現実味を帯びた。
同じ月、秋元は顧問団を乗せて再びヘリコプターを飛ばした。ここまで骨を折ってくれた彼らへのお礼のつもりだった。空の上で寺田が言った。
「こうして空から見てみると、我々の答申はやっぱり正しかった」
流山に新線の駅が3つもできたワケ
1991年、一都三県と沿線自治体が出資する第三セクター方式で「首都圏新都市鉄道」が発足。この会社が92年に鉄道事業免許を取得し、94年に鉄建公団による建設が始まった。
流山市には都心からつくばに向かい「南流山」「流山セントラルパーク(当初の仮称は「流山運動公園駅」)」「流山おおたかの森(同、「流山中央駅」)」の3駅が作られることになった。
人口が2倍の柏市が「柏の葉キャンパス」「柏たなか」の2駅、三郷市、八潮市が1駅ずつであることを考えれば、流山が特別扱いを受けているようにも見える。秋元は言う。
「市長が霞ヶ関まで毎週、陳情に行ったのは流山くらいだったでしょう。関係者の方々が最後に一駅、おまけしてくれたのではないかと思っています」
つくばエクスプレスと東武アーバンパークラインが交差する「流山おおたかの森駅」は、秋元の父が求めて止まなかった「流山のヘソ」となり、目覚ましい発展を続けている。
しかし秋元は「まだまだ」と言う。