弟を殺した男、秀吉の側室の一人に
が、なんと運の悪いことか、その就職先も永久どころか翌年には倒産する。就職した会社が次々とつぶれてしまう人がいるものだが、お茶々母子の姿はそれに似ている。
柴田勝家を攻めたのは羽柴秀吉、もとの木下藤吉郎だった。じつはこの男、お茶々の母、お市の方に恋いこがれていたのだという。それで浅井落城のときのように母と娘を救い出そうとしたのだが、今度はお市が承知しなかった。彼女は夫とともに自害し、お茶々たち三人だけが秀吉の手に渡された。
こうした長い、いきさつの後、お茶々はまもなく秀吉の側室となる。思えばかつて弟を殺した男の寵愛をうけるのだから、縁とはふしぎなものである。
秀吉にはこのほかにもたくさん側室がいたし、だいいち長年つれそったおねねが、正室北政所としてデンとかまえているから、お茶々の心は平らかではなかったかもしれない。
秀吉の死後、秀頼にべったりの生活
やがて彼女はみごもった。五十二歳まで子供のなかった秀吉にとって、これは奇跡的なことだ。天下一頭のいい男、秀吉はとたんに親ばかになり、と同時に彼女はがぜんツヨくなる。お茶々がむりにねだって淀に城を作ってもらうのもこのころだ。大坂城には正妻のおねねがいる。そんな所で子供は産みたくない、というところだったのか。以来お茶々は淀どのと呼ばれるようになるのである。
不幸にしてこの子は早死するが、まもなく二人目(のちの秀頼)が生まれることにより、秀吉はさらに親ばかになり、彼女はいちだんと猛母になる。
秀吉の秀頼に対する親ばかは天下一品だ。死期のせまったとき、くどいほど、
「秀頼をくれぐれも頼む」
と言いおいていったのは、あまりにも有名である。
さて、秀吉の没後、お茶々の目には秀頼しかなくなる。秀頼が大坂城のあるじになると、ぴったり彼によりそって離れない。しぜん、政治の表面にも顔を出すが、あくまでも秀頼の利益代表、いわばPTAとしてのご発言だ。
彼女が権勢欲の権化だったらこうではあるまい。むしろ子供などほうっておいて、権力遊びに熱中するはずだが、彼女にはそんなところはない。