「失敗した教育ママ」チャンピオンは淀君

もっともこれらは成功例だが、昔でも教育ママの度がすぎて失敗した例もないではない。そのチャンピオンとしてここにご推薦申しあげるのは、かの有名な淀君――豊臣秀吉夫人で秀頼の母となる女性である。

これにも異論が出そうだ。

「淀君ってもっと虚栄心が強くて、権勢欲が強かったのじゃないかしら」

が、じつは、これは徳川時代に作られたイメージにわざわいされているのだ。何しろ徳川は豊臣を倒して政権を奪ったのだから、豊臣方のことは悪くいうにきまっている。

その色めがねは、もうそろそろはずしてもよいころだ。そうして彼女を見直すと、意外に権勢には無関心である。その証拠に、ただのマダム・トヨトミ時代の彼女は、夫の秀吉のやることに、何ひとつ口出ししていない。が、いったん母親になると、がぜん彼女は急変する。「女は弱し、されど母は強」すぎたのである。

七歳で実家が「倒産」、織田陣営で育つ

淀君――本名はお茶々という。永禄十年(一五六七)生まれというから、かれこれ四百余年前のことだ。

父は近江の小谷おだにの城主浅井長政、さしずめ今ならベストテンすれすれの大企業主の令嬢というところだが、その少女時代は必ずしも幸福ではない。七歳の年に、小谷城は落城してしまうのだ。企業倒産である。

父は自害、皮肉なことに攻め手は母の兄、織田信長だった。もっともこうしたことは、戦国時代にはよくあった。落城に際し、彼女の母のお市の方や妹たちとともに、織田の陣営にひきとられる。

このとき男の兄弟はひそかに身をかくすが、後で見つけられて惨殺される。このとき手を下したのが信長の将、木下藤吉郎の部下だった。

お茶々たちはその後、伯父信長の清洲の城ですごすことになるが、ほぼ十年後の天正十年に第二の事件がおこる。信長が明智光秀のために、京都の本能寺で殺された――またしても企業倒産!

保護者を失ったお市の方と娘たちは、とたんに生活の安定を失う。事件後半年もたたないうちにお市の方がお茶々たちをつれて、信長の有力な部下、越前北庄きたのしょう(福井市)の城主柴田勝家にとついだのは、やむを得ざる永久就職であったのかもしれない。