家から数分の距離にかかりつけの先生がいた

【次女・照子】母は認知症になる前から血液の病気を患っていて、病院の先生からは「連れてきてください」と言われましたし、私としては入院したほうが安心なところもありました。でも、父が何より自宅で看たいという思いがあって……家から数分の距離のところに父と親しくしているかかりつけの先生がいたんです。その先生が「僕がいますから」と言って、母に熱が出た時は往診してくれたり、便秘といえば浣腸してくれたり、ひどく衰弱した時は点滴もしてくれました。

2008年に認知症の症状が現れ、徐々に衰弱したものの、10年に和子さんが手伝いに来たことによって活力を得た歌子さん。けれどもまた数年経ち、徐々に状態が悪くなり、14年の終わり頃から眠る時間が長くなっていった。そして15年1月、永眠――。亡くなる前日は和子さんがいつものように手伝いに来ていたという。

【和子】夜8時までいて、敬子さん(長女)にバトンタッチしたんです。そうしたらあくる朝、「亡くなった」と電話を受けてびっくりしました。たしかにもうずっと寝ているような状態だったけれど……。

父と二人きりだったら、悲惨な結果になったと思う

【次女・照子】私も青天の霹靂でした。その晩は、父ではなく姉が横に寝ていたのですが、姉がうつらうつらして、明け方にハッと起きた時には母の息がなかったそうです。私は亡くなったその日が介護当番の日でした。その数日前に「じゃあね」と母と別れたばかりで、まさか亡くなるとは夢にも思っていなかったんです。あとから、先生に「もうそろそろだ」と言われていたと姉から聞きました。そんなに早く亡くなるなら、泊まればよかったと後悔しています。

でも、だんだん食べられなくなって、お水しか飲めなくなって、痩せていって、そのうちお水ものどに詰まるようになって、最後まで寿命を全うした「老衰」でした。最後のほうは心臓の機能が弱くなったからか、むくみがつらい、足が痛いと言うことはありましたが、母はみんなにケアされて幸せだったと思います。うちは4人体制でしたから。プラス父。これが父と二人きりでしたら、悲惨な結果になったと思います。

取材中、六三郎さんは颯爽とキッチンに立ち、かぼちゃの煮物を作ってくれたり、メロンを切って、私に出してくれた。取材で来ているので最初は遠慮していたのだが、とりわけまでしてくれて、その温かさに心が和み、どちらもいただいた。メロンはよく熟れていて甘く、かぼちゃはホクホク感がたまらない。おいしかった。

写真=銀座ろくさん亭ウェブサイトより
「銀座ろくさん亭」の店内の様子

死が近くなった頃、六三郎さんはおにぎりを小さくして塩昆布や梅を入れ、食べやすいようにして「はい、ばあば」と言って食べさせたという。「ぱくんと食べてくれた」と笑う。歌子さんが亡くなった時、そして現在の心境を聞いた。