そんな不安から逃げるために、人は現実逃避の道を選びがちになる。先延ばしにする、気晴らしに時間を費やす、コミットメント恐怖症になる、急に片づけを始める、一度に大量のプロジェクトを引き受ける、といった具合だ。
これらはすべて、自分が主導権を握っているという幻想を維持するための手段である。
また、一見違うように見えるけれど、心配性もそれと大差はない。考えてもどうにもならないことをあれこれ心配して、あたかも自分がものごとを決める立場にいるかのような幻想にしがみついているだけだ。
心理療法家ジェイムズ・ホリスは、人生の重要な決断をするとき、「この選択は自分を小さくするか、それとも大きくするか?」と問うことを勧める。そのように問えば、不安を回避したいという欲求に流されて決断するかわりに、もっと深いところにある目的に触れることができるからだ。
たとえば、今の仕事を辞めるかどうかで悩んでいるとしよう。そんなとき「どうするのが幸せだろうか」と考えると、楽な道に流される。あるいは、決められずにずるずると引きずってしまう。
一方、その仕事を続けることが人間的成長につながるか(大きくなれるか)、それとも続けるほどに魂がしなびていくか(小さくなるか)と考えれば、答えは自然と明らかになるはずだ。
できるなら、快適な衰退よりも不快な成長をめざしたほうがいい。
無理な基準を自分に課すのは暴力的な行為
<質問2>
達成不可能なほど高い基準で自分の生産性やパフォーマンスを判断していないか?
いつの日か時間を自由自在にできるはず、という幻想を持っている人は、時間の使い方について達成不可能な目標を自分に課してしまいがちだ。
現実には、無限にやってくる要求にすべて対応できるほど効率的なやり方など存在しない。仕事や家庭、社交、旅行、政治活動にそれぞれ「充分な」時間を費やすことは、まず不可能だ。
いつかそれが実現できると思って、つねにそのための準備をしていれば、ある種の安心感は得られるかもしれない。でもそれは、偽りの安心感だ。
もしも救いがけっして来ないことを知っていたなら──つまり、あなたの基準は永遠に達成できず、充分な時間は永遠に手に入らないことが確かだとしたら──あなたは今日、自分の時間をどう使うだろうか?
自分の場合は仕方ないんだ、と反論する人もいるだろう。不可能だとしても、とにかくやらなければ大惨事が起こるんだ、と。たとえば、「不可能なほどの仕事をこなさなければ、クビになって収入源がなくなる」とあなたは言うかもしれない。でも、本当にそうだろうか。
不可能な量の仕事は、どうやったって不可能なはずだ。たとえ大惨事が起ころうと、できないことができるようになるわけではない。それなら、できないという現実を見つめたほうがよほど健全なのではないだろうか。
誰も達成できない(そして多くの人が他人には要求しようと思わない)ような基準を自分に課すのは暴力的な行為だ、とイッド・ランダウは指摘する。人道的見地からいっても、そんな努力は今すぐにやめたほうがいい。
無理な基準など、ぜんぶ地面に投げ捨ててしまおう。
その瓦礫のなかから重要なタスクだけをいくつか拾い上げ、今すぐに始めよう。