しかし、天下分け目の決戦、関ケ原の戦いでは、秀吉への恩義から劣勢を承知で西軍に合流します。しかし、宗茂が別の戦場に派遣されている折、決戦はわずか一日で徳川方の勝利に終わり、敗将となって改易処分となりました。
ここまでは戦国ファンにはよく知られたこと。実は、その後、浪人生活の辛酸をなめたものの、家康、秀忠からその高い能力を惜しまれて、かつての領地、筑後柳川藩の大名に返り咲きます。関ケ原で徳川家に敵対した大名で、旧領を回復したのは立花家だけでした。
三代将軍・家光からの突然の呼び出し
平和の世に、二代将軍秀忠の「御伽衆」として側近く仕えた宗茂は、60代も半ばを過ぎた老境に至り、三代家光に一層、重きを置かれます。
あまり知られてはいませんが、茶の湯や連歌、能や蹴鞠といった芸事に通じたインテリでもあったので、江戸のサロンでは幅広い交際を結んでもいます。晩年には「御伽衆随一」と称され、諸大名から大いに羨まれたことが幕府正史に記されています。
さて、物語は、二代秀忠の病いが重篤になり、新たな時代が幕を開けようとする寛永8年から始まります。親政に気持ちを昂らせる三代家光は、神君家康がいかにして関ケ原を勝ち抜いたのか、老将宗茂を召して、その考えを開陳するよう命じます。
宗茂にとって、これはかなり剣呑な諮問でした。なぜ、いま関ケ原なのか、その意図がはっきりしないからです。
前回の代替わり、家康が亡くなって秀忠の親政が始まるや、福島正則、出羽最上家といった大大名が次々と改易されて、諸国を震撼させたことが脳裏をよぎります。もし親政への昂りからまた改易騒動が引き起こされるとしたら、その材料に関ケ原が使われるとしたら――。
いざ、家光へのご進講が始まり、宗茂が関ケ原に関する自身の経験や考えを開陳する中、ふたりの論議はある結論に至ります。
豊臣方だった老将から見た関ヶ原の戦い
決戦の勝敗を分けた要因は、やはり、西軍の毛利が戦況を傍観し、結局は戦場に出なかったことが決定打ではなかったか。
毛利はなぜ、総帥の輝元が総大将として大坂城に入りながら、前線指揮官の吉川広家が家康に寝返ったのか。
この広家の裏切りを、同じ前線にいたもう一人の大将の毛利秀元、一時は輝元の養子となって本家を継ぐはずだった気骨の武将が、なぜ、容認してしまったのか。
二人は、当の秀元を御前に呼び出し、その疑念を質すことにいたします。
これは、毛利家には相当に厄介な話でした。家康に歯向かった家として、改めて、何か言いがかりをつけられるのではないか、返答如何によっては、重大な危機に陥る恐れもあるからです。