思い返せば不審に思っている女の子はいたけれど…

ふり返ってみると、ときどき女の子たちが「ラリーのすること、なんだか気持ち悪くない?」と話す声を耳にしたことはあった。でも私たちは二人とも相手にしなかった。「そんなことないよ。ちょっとオタクっぽいラリーなだけでしょ」と言い返した。

ずっと、どうして? と訊くな、騒ぎ立てるな、と教えこまれてきたのだ。アメリカ体操連盟の偉い人たちからは、にこにこ笑って、なんでも楽々こなして、魅力的に見えるようにしろ、と言われていた。マスコミと話をする練習をさせられたときは、「エリート体操選手になれてどんなにすばらしいか」を話すように言われた。何もかもを虹と蝶々みたいに演出するのが、私たちに求められたことだった。完璧で従順なアスリートを期待されていたのだ。

もうこれは仕事だった。だからへまをやったら途端に、お前の代わりはいくらでもいるんだからな、というあからさまな態度をとられる。何かにつけてそれをやられるのだ。アメリカ体操連盟が2000年のオリンピックチームに選んでくれたとき、私は感謝した。その年たった6人選ばれたうちの一人だったのだ。もちろん私はそれはがんばったのだけれど、連盟にものすごく借りがある気がしてもいた。オリンピックに出てメダルを一つ獲って、これもアメリカ体操連盟のおかげだと思った。

告発がニュースになったとき1本の電話がかかってきた

10年以上経って、虐待の告発がニュースになったあと、スティーブ・ペニーから電話をもらった。当時のアメリカ体操連盟会長だ。私はロースクールを終えたばかりで、数日後にせまっている司法試験の勉強で忙しく、そのことで頭がいっぱいだった。初めての子育てもあったし、それからまもなく二人目を身ごもる。夫はプロバスケットボール選手で、チームと一緒に試合で海外に出ていたから、私は一人で何もかもやっていた。虐待の告発のことを考えてみる時間なんかとてもなくて、自分が被害に遭ったかどうか気にしている暇もなかった。試験のことに集中して気を散らさないように注意していた。そんなときにスティーブ・ペニーが、被害に遭ったか、と訊いてきたのだ。

不意打ちも同然だった。どうしたものかと考えてみる前に、気がついたら、ノー、と答えていた。するとペニーは、ラリーとアメリカ体操連盟を支持するステートメントの両方にサインしてくれ、と言ってきた。スティーブは私がまだ連盟に恩義を感じていると知っていた。だから私をねらってきたのだ。断りきれなくて、連盟を支持するステートメントのほうはサインする、と私は言った。ラリーのほうは断った。アメリカ体操連盟は、私がサインしたステートメントをTwitterで大々的に流した。そのツイートには世界選手権のときの私の写真が添えられていた。