サラリーマン人生が終わる大失態
上野にとって前田は、小さなミスでも叱責される怖い上司だったが、ただ厳しいだけではなかった。
日韓ワールドカップに列島が沸いていた02年。キリンは「サッカー日本代表応援缶」を発売していた。中身は淡麗だったが、缶には出場予定選手たちのメッセージが描かれていて、売れ行きは好調。
この応援缶をマーケ部で担当したリーダーが上野だった。
直前に開発した「淡麗グリーンラベル」は順調にヒットし、勢いに乗っていたときである。
だが、“好事魔多し”だった。
お客様相談室にかかってきた消費者の電話により、応援缶にある原材料表記の誤りが発覚したのだ。原材料に記すべき「米」が、抜け落ちていたのだ。
メンバーがもってきたデザイン版下の最終チェックをしたのは上野だった。そのとき、「米」の表記が抜けているのを見逃してしまっていたのである。
「自分のサラリーマン人生は終わった」
上野は顔面蒼白になりながら、とにかく前田のもとに報告に向かった。
「部長、申し訳ありません。大変なミスをしてしまいました……」
上野の説明を聞き終えると、前田は「そうか」とだけ発した。その上で、「とにかくいまは、やれることをやりなさい」と、静かに指示をした。
叱責を予想していた上野は、拍子抜けしてしまう。それくらい、前田の反応は冷静だった。
本当に深刻な事態に陥ったとき、優秀な上司ほど、失敗した部下に感情をぶつけたりはしない。激怒したところで、解決に結びつくわけではない。善後策を講じることこそ本来やるべきことである。
だが、社内は大騒ぎとなる。数分後には営業部の幹部たちが、「なんてことをしてくれたんだ!」と怒鳴り込んできた。
上野はすぐにミーティングを開き、新聞広告や自社HPでの謝罪文の掲載を決める。また、上層部は、出荷前の応援缶は全量を破棄。既に出荷した分については回収しない方針を固めた。「米」は抜けているが、他は間違っていない。何より、中身は淡麗であり、問題はないと判断した。
しかし、大手スーパーは全量を返品してきた。営業幹部が謝罪に赴いても、返品は覆らなかった。
「部下を処分するなら、先に俺を処分しろ」
ミスの発覚から10日ほどが過ぎる。上野は前田に個室に呼び出された。そこで、前田は言った。
「俺はほんまに嫌なんやけど、お前ら懲戒処分や。具体的には譴責や。リーダーのお前と担当者の2人には始末書を書いてもらう」
「はい……」
予想はしていたが、懲戒という厳しい処分が下り、上野は少なからぬショックを覚える。しかし、前田が発した次の言葉には、耳を疑った。
「あのなぁ、懲戒は全部で3人や。俺も、さっき人事に頼んで譴責にしてもらった」
「エッ!?」
前田の説明によれば、こうだ。人事部に呼ばれた前田は、上野と担当メンバーの処分を伝えられる。「懲戒処分にします。譴責です」、と。
これに対し、前田は真っ向から反発する。
「納得できません。懲戒は不正を働いた者が受ける処分。『米』を落としたのはミスだった。しかし、会社の金を私したような輩とは、明らかに違う。同列に扱うのはおかしい」
「就業規則に『会社に多大な損害を与えた場合は処分する』とあります。今回はこれが適用されました」
「……いや、やはりおかしい。上野たちを懲戒処分するなら、その前に俺を懲戒にしろ。譴責にしたらいい」
「そ、それはできません。前田部長には管理責任はありますが、懲戒にするほどではないので……」
若手でありながら、一選抜といって最も早く前田は部長に昇進した。役員になるのは時間の問題であり、将来は社長についてもおかしくない。そんな逸材の人事データを汚すことになれば、人事部の失態と指摘されるかもしれない。
「俺を懲戒にする。これが、2人を懲戒にする条件だ」
と、前田は決して譲らなかった。
「と、いうわけだ」
「ありがとうございます」
前田の説明を聞き終えた上野は、思わず頭を下げていた。
「この人は、サムライだ」としみじみ上野は思った。
上野もメンバーも、前田から特別に評価されていたわけではなかった。そうした次元ではなく、部員が安易に懲戒処分される理不尽さを、どうやら前田は許さなかったのだ。そして、仲がいいとか、仕事ができるとかを度外視し「前田さんは徹底して部下を、さらにマーケターを守る上司だ」と上野は痛感する。
上野は「仮に自分が前田さんの立場なら、人事部サイドに立っていました。それが普通なんです。人事部とは喧嘩しませんから」と話す。
前田も一緒に懲戒となったためか、その後の上野のサラリーマン人生に懲戒処分が影響することはなかったそうだ。