私たちはなんのために祈るのか
ミンコフスキーは、祈り(prayer)とは「今」に心を向ける瞑想とも、過去にかかわる祈り(orison)とも異なると述べています。
彼は、倫理的行為との二重性に結びつけました。祈りにおいては、大いなる何かが私たちを救い、問題を解決してくれることを期待します。
倫理的行為においては、私たちが自分の内にある大いなる力とつながり、自分の意志を超えた何かを、ほかの人のためにします。その瞬間、人は神のような存在になるのです。それは、私たちの世界では、どんな瞬間なのでしょうか?
人生は目隠しをして地下鉄に乗るようなもの
私にとって、これ以上ない倫理的行為だと思える瞬間は、病気で死にかけている子どもに向かって、母親が「逝っていいよ」と言うときです。
母親は、最初は病気の治癒を祈ったはずですが、内なる力とつながった瞬間、自分の望んでいることが最善ではないと気づきます。わが子にとっての最善は、母にとって最もつらい「死」を受け入れることなのだと理解したのです。そして愛ゆえに、子どもの死を受け入れ、解放してあげます。
その大いなる力、内なる神聖な力とつながると、私たちは他者のために善を尽くせます。それが真の善き行いで、たとえ望まぬことであったとしても、やらなければならないことができるのです。真の善を受け入れれば、すべては円滑に流れ、愛をもって生きられるようになるのです。
相手とつながり、心の奥深くから最善を願えた瞬間、とてつもない力がわいてきます。あっという間に真の善き行動を起こせます。
地下鉄を想像してみてください。乗客は駅を通り過ぎていきますが、そこに存在したわけではありません。ただ、通り過ぎただけです。
人生は、目隠しをして地下鉄に乗るようなものです。どこにいるのかよくわからない場所から乗車し、どこで降りるかもわからず、今どこにいるかもわからない。ただ地下鉄のなかにいるだけです。そしてあるとき扉が開き、名前を呼ばれます。「アナ・アランチスさん、降りますよ!」
親しい人が亡くなるたびに、自分もいつか地下鉄を降りるのだと考えます。自分の死に思いをめぐらせます。あといくつ駅を通過したら自分の番がやってくるのだろう、と。
重病の患者と接する仕事上、私のもとにやってくる患者は、すでに治癒の見込みがないか、病状をコントロールできないため、残された時間の重要性をはっきり認識させられます。患者たちには、本当にわずかな時間しか残っていないのです。