秋には仮装した芸者や幇間が踊ったり、芝居の真似事をしながら練り歩いたりする「にわか」が行われた。祭りの時のように、車輪の付いた舞台である「踊屋台」も牽きながら吉原の町を回った。登楼が目的ではない「堅気」の男性も女性を連れ、吉原までその様子を見物にやって来るほどだった。

遊女たちも必死に営業活動をした

このような吉原オリジナルのイベント開催日は「紋日もんび」と呼ばれ、その日の遊女の揚げ代は通常の二倍とされた。揚げ代だけでなく、「台の物」と呼ばれた料理や祝儀の代金も二倍となっていた。

人出が多くなる繁忙期であることを見込んだ強気の料金設定である。イベント開催に要した投資も回収しなければならない。だが、遊女屋側には料金を倍増しても客足は落ちないという読みがあった。

吉原の方から出張する形で登楼を誘うこともあった。

その舞台は吉原にほど近い浅草寺である。享保十八年(一七三三)に浅草寺境内を会場として行われた「御成跡開帳」の際、吉原の遊女は本堂裏に千本桜を寄進している。満開の枝々に自分の名前を記した札を下げ、あるいは自作の詩歌を書いた短冊を吊るすことで参詣客の登楼を誘った。

開帳場には信徒や商人の奉納物が所狭しと陳列され、参詣者をターゲットとする宣伝の場と化していた。文政十年(一八二七)の本尊開帳時には吉原の遊女屋や抱えの遊女からの奉納物が数多く並んだ。登楼を期待する吉原の営業活動に他ならなかった。「開帳」は本書で詳述するが、寺社による秘仏などの公開(期間限定)のことである。

絢爛の極み、桜の下の吉原花魁道中(「江戸名所図会」=国立国会図書館蔵)

吉原を脅かした「江戸四宿」の岡場所

吉原は、様々な集客策と並行して、競争相手を抑え込むことにも力を入れる。

吉原以外で遊女商売は営めなかったはずだが、寺社の門前や江戸四宿(千住、板橋、内藤新宿、品川)などでは半ば公然と遊女商売が行われていた。

料理茶屋や水茶屋・煮売茶屋、あるいは旅籠屋の看板を掲げつつ、給仕する女性を遊女として働かせていたのである。このような非合法な遊女商売が行われた場所を人々は、岡場所と呼んだ。

地域別で見ると、隅田川東岸にあたる深川が特に多かった。深川には永代寺という巨大な寺院があったことも後押しした。その門前や周辺には「深川七場所」と称された岡場所もあった。

幕府公認の吉原の遊女が「公娼」と呼ばれたのに対し、非公認だった岡場所の遊女は「隠遊女」、「私娼」などと呼ばれた。

遊客にとり、岡場所の魅力とは何と言っても揚げ代の安さに尽きるだろう。

吉原の場合は遊女にもランクがあり、中級ランクの「座敷持」と呼ばれた遊女の揚げ代は金一両の半分にあたる金二分であった。一方、深川の岡場所での揚げ代は一両の五分の一にあたる銀十二もんめが相場で、吉原の半額以下だった。