頼家と13人の御家人の本当の関係

頼家の暗君を象徴する話は、他にも、『吾妻鏡』に記載されている。

鎌倉幕府2代将軍 源頼家像(画像=建仁寺/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

1199年4月には、訴訟問題を頼家がじかに判決を下すことが停止され、北条時政など13人の有力御家人の合議によって決裁されることが記載されているが、これも頼家が若年で暗愚であるため、親裁が止められたと理解されてきた。

しかし、頼家はその実権を完全に剝奪されたわけではないことは、同じ『吾妻鏡』の記述からうかがうことができる。

『吾妻鏡』(国史大系本)には「諸訴論のこと、頼家が直に決断する事を停止した」とあるが、同書の吉川家本には「諸訴論のこと、頼家が直に(13人以外から)訴訟を聞き届ける事を停止した」とある(1199年4月12日)。

つまり、前者においては、頼家は訴訟について最終的な決断を下す権限が停止されたことになる。が、後者では頼家が13人の御家人以外から訴訟を聞き届けることが停止されただけであり、頼家の親裁が排除、否定されたわけではない。そして後者の事を裏付ける出来事が、これまた『吾妻鏡』に載っているのである。

自分の判断で領地問題を解決する

1200年5月28日のこと。土地に関する訴訟問題が三善みよし善信やすのぶから頼家に上申された。すると頼家は善信から進められた絵図を見て、墨をその絵図の中央に引き「所持する土地が広いか狭いかは、その身の運による。わざわざ訴訟対象の土地に使節を遣わす事は、無駄である。今後は、土地の境界についての訴訟は、このように決裁するべきだ。とやかく言う者があったら、訴訟として取り上げてはいけない」と言ったという。

まず、この話からは、頼家の親裁が完全に否定されていないことが分かろう。有力御家人13人のひとり・三善善信からの上申もあったことも分かる。

さらに、頼朝時代の決定を不服とする人々へ、頼家からの戒めと捉えることも可能であろう。

この時期、頼朝から頼家への代替わりに伴い、土地を巡る訴訟(土地の権利関係の改変など)が増加していた。しかし、頼家はこの動きを歓迎しなかったようだ。頼家の確たる考えを表した話とも言えよう。

以上の事を考えた時、頼家を単に無能と評価することには慎重でなければならない。(ちなみに、前述の頼家の提案は、実行されていない)