常任理事国に拒否権が付与された理由

今回、国連安保理は機能しなかったが、今後有効に機能するように改革され得るのだろうか。

五つの常任理事国に対する拒否権の付与という国連安保理の表決手続きの特殊性は、国際社会における二つの妥協の上に成り立っている。一つは主権平等という建前と、実際には強い国と弱い国が存在する現実との間の妥協、もう一つは、紛争解決に重要な役割を果たすべき大国を国連にとどめておく必要性と、紛争の公正な解決の必要性との間の妥協である。

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後者の妥協は第一次世界大戦後の国際連盟が機能しなかったことの反省に基づいている。すなわち、国際連盟においてはそもそも設立を主導した米国が加盟せず、ドイツも当初加盟しておらず、その後加盟が認められ常任理事国となったものの、1930年代には脱退、同じく常任理事国であった日本とイタリアも脱退するなど、主要国がほとんど不在となってしまった。

第二次世界大戦を経て創設された国際連合においては、少なくとも5つの主要国に対しては拒否権を与え、組織が機能しなくなる事態が生じないような構成とした。ところが拒否権があるために組織は維持できるが、その代わり紛争解決のシステムは機能しないという事態が生じた。結果的に、紛争解決という意味では国際連盟の場合と同様の事態が生じることになったとも言える。

草創期から始まっていた常任理事国間の対立

国連は第二次大戦中にローズベルト米国大統領の提唱に始まり、同大統領とチャーチル英首相が合意した大西洋憲章を経て、1942年1月1日、ワシントンで採択された連合国共同宣言、並びに翌1943年10月のモスクワ宣言がベースとなっている。

その後、1944年夏のダンバートン・オークス会議において専門家により憲章草案が作成されたが、拒否権の問題について米英ソ間に意見の対立があった(米英が拒否権の範囲を重要事項に限定しようとしたのに対し、ソ連はすべての事項について認めることを主張した)。この対立が翌1945年2月の米英ソ三国首脳によるヤルタ会談で最終調整が図られ、同年4〜6月のサンフランシスコ会議において最終合意に達し、第二次大戦終結後の1945年10月に正式発足、という経緯を辿った。