私大を受ける生徒はバカ呼ばわり

大分上野丘は1950年代に進学実績で差をつけられた新設校の大分舞鶴高校の受験勉強方式(8時間授業や補習など「舞鶴方式」と呼ばれた)をすべて取り入れ、一部の学内行事を中止あるいは縮小するなど、受験指導に異常なまでに力を入れたが、学校史は「進学狂奔時代」という見出しをたて、こうふり返っている。

「生徒の側から見れば「高校は受験のための存在」であり、その印象は「灰色……」であった。こうした進学一辺倒主義によって、生徒の人間性・社会性を高め育てるという教育の根本的な面が二の次に回され、文化・体育のクラブ活動は沈滞した。そして文化祭や体育大会も、できるだけ授業に支障をきたさないように配慮?して実施された。〔略〕この時期の卒業生は「補習をするので、夏休みは無いも同然だ」

「1日8時間に加えてとテストぜめ」「ガリ勉が増え、部活動はべっ視された」「国立中心主義で、私大を受ける者はバカよばわり」などと当時を批判的に振り返る者も多い」(『上野丘百年史』1986年)

1970-80年代、鹿児島の鶴丸高校も受験指導は厳しかった。同校OGのミュージシャン・辛島美登里氏(1981年卒)の高校時代がこう描かれている。

「待っていたのは勉強漬けの日々だ。修学旅行はなく、授業時間に充てられた。クラブ活動をしているのは成績上位者だけで、あとの者は自習学習するのが常識だった。それでなくとも毎日、山のような宿題が出る。〔略〕しかも、各授業の開始前に小テストが行われるので、「休み時間」も休むヒマはなかった。/勉強、勉強で、わくわくする時間などまったくなかったけれど、「問題作成や添削をする先生だって大変なんだから、私も頑張らなくちゃ!」と純粋に机に向かっていました」(『読売ウイークリー』2008年8月10日)

「鶴丸とは勉強するところなり」

鶴丸にはこんなエピソードがある。1951年、鶴丸の入学式後、在校生と新入生の対面式に次のようなシーンがあった。学校史が描く。

小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)

「生徒会長の南竹治郎は、壇上に上るなり左右をへいげいし、一呼吸おいて、前生徒会長徳満の「鶴丸とは勉強するところなり」ということばをぴしゃりと言い放った。がやがやとしていた新入生は、一瞬あっけにとられ、その顔から稚気がうせ、緊張がさっと走ったという」(『創立百年』1994年)

さぞ、びびったことだろう。「勉強する」ことが鶴丸の伝統なのである。

結果を出すことが求められる。そう意識したことで、一中は大学受験予備校の道をひたすら走ったのだろう。いまでも熱心に行われているが、ここまで狂奔していない。受験指導については「昔は良かった」と回顧するのはむずかしいだろう。いまの方がずっとましなのだから。