「絶対、許さない」。このとき湧いた感情をずっと引きずっている。その後、母は施設や病院で暮らしたが、訪ねて行く気にはならなかった。「大好きなお母さん」という感情は最期まで戻らなかった。
19年11月に母は亡くなった。
葬式に同級生の母親が2人来た。マドカは知らなかったが、その2人は母の病院にも見舞いに行っていたらしかった。
「たくさんの人がマドカちゃんのお母さんにお世話になったの。それは忘れないでね」
そういえば、お母さんが病気になる前、うちは人がいっぱい来る家だったなあ。「明るく輝いていた」時の母を知る人の言葉がとても新鮮に響いた。
「今思えば」は山ほどあった…母の苦しみ
大学でマドカは福祉を学んだ。なぜその道を選んだのか、自分でもうまく説明できない。
卒業後、介護老人保健施設を経て、東京都内のグループホームで管理者として働く。介護する側とされる側、その家族を客観的に見る立場になって、自分の過去を振り返ることがある。
認知症の母はブルーベリージャムでご飯を炊いてしまったり、マドカには小さすぎる子ども用の布団を用意してしまったりした。母なりに「母親でありたい」ともがいていたのかもしれない。暴力や暴言は、言葉がうまく出てこないなりに苦しんでいたのかもしれない。
「パート先でうまく働けない」と母は悲しんでいた。その時はもう認知症が始まっていたのかもしれない。それでもマドカのために働こうとした。「今思えば」は山ほどあった。
歯磨きの仕方、自転車の乗り方、そして生きるすべを身につけさせてくれたのは母だった。華やかで活発な母のことが、やっぱり好きだったのだ。
たまたま目にした新聞の見出し
マドカの勤め先のグループホームでは、利用する高齢者のために新聞をとっている。20年3月のある日、誰かが毎日新聞を開いていた。めったに新聞を読まないマドカだが、たまたまその見出しが目に入った。
介護する子? ヤングケアラー?
「おばあちゃん、ちょっと待って。その新聞ちょうだい」。思わず声をかけた。
取材班のキャンペーン報道の最初の記事だった。これ、まるで私だ。「子どもによる家族ケアは美談ではない」という識者のコメントが印象に残った。
その後はヤングケアラーの記事に気づく度に切り抜いた。ところどころ蛍光ペンで線を引いて読み込んだ。ネットのニュースも注意して見るようになった。半年後、思い切って取材班にメールを送った。
20年の10月中旬、駅の改札前で初めて会ったマドカは、カジュアルな装いで肩にトートバッグをかけていた。緊張からか表情は少し固かったが、話し方は親しみやすく、飾らない人柄を感じさせた。駅に近いファミリーレストランで話を聞くことになった。