「母を殺して自分も死のう」
妄想ともつかない考えが頭に浮かぶようになったのは、その頃だっただろうか。母がベッドに横たわって死んでいる。隣に立つ自分は虚脱して全身に力が入らない。そんなイメージがマドカの頭を占領した。
「殺そう」。もう終わらせたかった。律義なもので、その時は自分も相応の罰を受けるべきだと思っていた。母を殺して自分も死のう、それで「落とし前」をつけよう。
授業中、母を殺す方法をじっと考えた。以前にニュースなどで見た知識を振り絞った。
①風呂に沈める。浴槽のふたを閉める。
②母の顔を枕に押しつける。
③ガス栓を開いて一緒に死ぬ。
インターネット検索がまだそこまで普及していなかった時代、ガラケーの中学生に思いつくのはそれが限度だった。結局、実行しなかった。
ふと、子どもの悩み相談ダイヤルに電話してみようと思ったことがある。学校で配られたプリントにそんな案内があったような気がした。ところが、電話の受け付けは「平日の午前9時から午後5時まで」だった。
ものすごく腹が立った。誰がそんな時間に殺したくなるかよ。殺したくなって、死にたくなるのは夜中だよ!
兄と姉、教師の救いの手
しかし高校に入ると転機が来た。マドカは姉の家に身を寄せる日が増えた。
実家に戻ってきた兄が母の介護の大半を引き受けてくれた。「○○さん(母の名前)、ご飯ができましたよ」。母に敬語で接する兄を、不思議な気持ちで眺めた。
高校の授業で、何かの作文に家族のことを書いて提出した時のことだ。
「ちょっといい?」
国語の教師から個人的に呼び出された。マドカの家の事情を聴くと、教師は顔色を変えてすぐに言った。
「きょう学校が終わったら、地域包括(支援センター)に行こう」
地域包括ってなんだろう? いきなり言われてピンとこなかった。その「ちょっと熱血」な教師があれこれ世話を焼いた結果、母の入院が決まった。その教師が神さまに見えた。
今も残る「絶対、許さない」という感情
27歳になった今も、母に対しては複雑な思いを抱えたままだ。それは病の進んだ母がマドカのことを忘れてしまったことが影響している。
父を早くに亡くし、きょうだいとも年の離れたマドカは、母の愛情を一身に受けて育った。母に「きょうだいの中で誰が一番好き?」と無邪気に尋ねる子だった。かつて、母に愛されているという自信があった頃のことだ。
高校に入って母と別々の時間が増えると、間もなく母はマドカのことがわからなくなった。こんなに簡単に忘れるのか、と衝撃を受けた。生まれてきたことさえ否定された、という気がした。