大河で唯一描かれた女性問題
大河ドラマで唯一、栄一の女癖がハッキリと描かれていたのは、「大内くに」についてだ。ドラマでは、栄一は宮中女官の女中だったというこの女性と、大阪に出張した際に出会っていたが、出会いについてたしかなことはわかっていない。
ともかく、次女の琴子が生まれた明治3(1870)年ごろ栄一と関係をもった「くに」は、明治4年に「ふみ」、6年には「てる」と、2人の娘を産んでいる。しかも妻の千代の許しを得て、神田北神保町の屋敷で、妻妾同居の生活を始めてしまったのである。
明治2(1869)年に大蔵省に出仕した栄一は、翌年に大蔵少丞、翌々年には大蔵大丞、その翌年の明治5年には、現在の事務次官に当たる少輔事務取扱にまで驚異の出世を遂げているが、そのエネルギッシュな猛進を支えていた裏には妻妾同居があった。
ちなみに、くにが産んだ娘は、「ふみ」は、妻の千代の実兄でもあった尾高惇忠の次男、尾高次郎に。「てる」は千代の姉の息子で、のちに日本の製紙王と呼ばれる大川平三郎に嫁がせている。
さらには、明治15(1882)年に千代を亡くした栄一が伊藤兼子と結婚すると、「くに」を官僚の織田完之に嫁がせている。
栄一は広範な人脈を生かして、女遊びの「後始末」にも、常に抜かりがなかったのだ。
会社の一大事に探すと妾宅にいる
明治6(1873)年に実業界に転身してからの栄一は、明治の花柳界でも五指に入るほど鳴らしたと伝わる。
実際、息子の秀雄(兼子との間に生まれた4男)も「そのころの栄一には、(中略)芸妓をキッパリことわったような殊勝さはなくなっていたらしい」と書く。「婦人ぐるい」も解禁になったということか。栄一は方々に妾を置くようになっていった。
明治中ごろ。栄一が社長で、明治の実業家、植村澄三郎が専務だった会社に事件が突発し、植村は急ぎ栄一に知らせて対策を講じたかったが、栄一は自宅におらず行方が知れない。
あれこれ探査したところ、日本橋浜町の妾宅にいることがわかり、植村はやむなくそこに向かった。そして来意を告げると、家の奥から生来大きな栄一の声が聞こえてきたというのだ。
「かようなところに、渋沢がおるべき道理はありません。御用がおありなら、明朝宅をおたずねになったらよろしいでしょうと申し上げなさい」
栄一本人が「おるべき道理はない」と言うのを、植村はおかしく思ったという。