どうすれば「本心からの謝罪」が伝わるのか

実際、私たちは普通、謝罪の言葉や態度の後に当人が何をするかによって、当人が本当のところどう思っているかを判断する。簡単な例では、謝罪した直後に人目につかない場所でげらげら笑っていたりした場合には、あの謝罪は本心からではなかった、と見なされるだろう。

「本心」そのものはどこまでも不確かでありうるからこそ、人はしばしば、当該の出来事を自分はかくかくのように認識した以上、これからしかじかのことをすると約束しそれを実行することによって、本心そのものの証明の代わりとする。

たとえば、自己を処罰するという約束。相手の溜飲を下げる何らかの行為をするという約束。生じた損害を賠償する約束。手紙を出し続けることなどによって、出来事を忘れずに反芻し続けるという誓い。人をあやめてしまった場合の、その人の墓前にずっと花を供え続けるという誓い。麻薬に手を出した場合の、もう二度と手を出さないという誓い、等々。

そして、そのような約束の内容の多くは、自分がしてしまったこと(=謝罪すべき自分の行為)によって損なわれたものや失われたものを何らかのかたちで埋め合わせる――その意味で責任をとる――という意味合いをもつ。たとえば、損なわれた相手の気持ちを晴らすとか、物的損失に対して補償を行うといったことである。

もちろん、この場合の「埋め合わせる」――つぐなう、あがなう――というのは、文字通りの意味で「元通りにする」ということではない。とりわけ、人の思い出の品を壊したり、生き物の命を奪ったりした場合などには、その損失を埋め合わせることなど不可能だ。

それでも、自分がしてしまったことを後悔し、責任を感じている人であれば、どうにかして「償い」に相当する行為を行おうとする。埋め合わせられないものを埋め合わせようとするかのように、場合によっては自分が死ぬまで「償う」ことを続けるのである。

「謝罪はいつ、どうやって完了するのか」という難問

土下座のような、一般にきわめて屈辱的と見なされる行為は、そうした「償う」行為のうち、まさに自己処罰や、相手の溜飲を下げる行為に当てはまるだろう。そして、謝罪の言葉とともに土下座をし、それが相手や周囲に受け入れられて許される場合には、謝罪はいわば最速に近いかたちで完了すると言える。

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しかし、土下座がいつも誰に対しても効力を発揮するわけではないし、むしろそのような振る舞いがひどく嫌悪される場合もある。繰り返すように、常に謝罪をそれだけで完了させる魔法の言葉や態度など存在しないのだ。

つまり、土下座のような極端な行為であっても、「謝ったんだから、もうそれでいいだろう」とは必ずしもならず、むしろ、軽微でないケースでは通常、長く継続的な行為の履行を約束する言葉を、謝罪の一環として提示することが求められる。そして、その約束が履行されなかったり、途中で破られたりすれば、「謝罪は嘘だった」とか「謝罪が十分ではなかった」などと評価されることになるのである。

さらに言えば、自分で勝手に約束してそれを果たすだけでは、謝罪が終わったとは必ずしも見なされない。謝罪はいつ、どうやって完了するのか、というのは実に難しい問題だ。たとえば、謝罪の終わりは「許される(赦される)」ということと深く結びついていると思われる。

しかし人は、決して許されなくとも謝り続けることもあれば、逆に、謝罪がなくとも許されることもある。謝罪と許しの関係を、私たちはどう考えればよいのだろうか。――こうした、より踏み込んだ問題の検討にはかなりの紙幅を要するから、これ以上は本稿とは別の機会に譲ることにしよう。