小1で終戦を迎え、お金に苦労する日々

戦争が終わったとき、棚原さんは小学校1年生だった。満州から引き揚げてきた父親はいわゆる道楽者で、棚原さんが小さい頃は仕事をしていたが、高校生になった頃にはほとんど働いていなかった。世のため人のためにひと肌脱ぐ気概を持った人ではあったけれど、家計を支えたのは母親だった。

撮影=水野真澄

「夜中までマージャンをやっている父を、母に言われて連れ戻しに行ったこともありました。母が着物を縫ってお金を稼いでいましたけれど、まあ、お金には苦労しましたね。母が私に長靴を買ってくれたとき、お店の人に『月賦でお願いします』と言っているのを聞いてからは、母によう物をねだりませんでした。自分の洋服を買うことができたのは、就職をしてお給料をもらうようになってからです」

棚原さんは三人兄弟の末っ子だが、小さい頃から一家にとって重要な戦力だった。掃除も洗濯も、自分のことは自分でやるのが当たり前。朝起きると竈に火を入れて煮炊きをし、襖張り、障子張りから布団づくりまで、母親の仕事はすべて手伝った。

「塾に行きたい」と言い出した息子に激怒した深い理由

そんな棚原さんの目には、いまの子どもたちの姿があまりにも危うく映る。

「戦後の貧しい時代を乗り越えてきた人らは、みんな強いですよ。なにもないところからエネルギーを湧かして、知恵をしぼって生活を回してきたわけやから、太い根っこを張って生きていた。ところがいまの子らは、根っこの張りようがないほど贅沢に暮らしている。たくさんお金を出して何でも与えてやれば立派な人間になるかといったら、そうじゃないでしょう?」

撮影=水野真澄
棚原さんのノックは正確に子どもたちの真正面に飛んでいく。

たとえば塾。息子のひとりが塾に行きたいと言い出したとき、棚原さんは「めっちゃ怒った」という。普通の親なら、向学心があっていいと褒めるところだが……。

「指先にタコができるぐらい勉強して、それでも足りない、もっと勉強できるようになりたいから、おかん、たのむ、塾行かしてくれというならわかるけど、学校でロクに勉強をしていないヤツが金出してくれとはどういう料簡やねんって、怒ったんです」

息子さんは後年、「塾に行きたいと言ったら、おお勉強したくなったんか! とおかんが喜ぶと思ったのに、あれほど怒られるとは思わなかった」と述懐したそうだが、棚原さんは決してお金を出したくなかったわけではない。

「まずは自分で努力をしてみい。その上で、お金をかけたらもっと出来るようになると思うんやったら、その時点で親に訴えてこいやということです。親の敷いた線路を歩くんじゃなしに、自分で線路を作れよ。そんで足りない部分は親に言ってこいよ。そんなら相談に乗ってやろうやないかい! ってことですわ」