皇位継承者がまったくいなくなってしまった

もちろん、これは口封じのためだろう。馬子は、河上娘を与えると直駒に約束したのかもしれないし、直駒が河上娘に懸け想そうしていたのか、それとも蘇我氏の外戚として栄達できると思ったのかわからないが、うまく利用されて抹殺されたわけだ。

いずれにせよ、他愛のない悪口が命取りになろうとは、崇峻天皇も思わなかったろう。ちなみに崇峻の人物や性格については、『日本書紀』などにはまったく記されていない。

ただ、崇峻が殺害されたことで、非常に困った状態に陥った。天皇の地位は、兄弟相続が原則であった。欽明天皇の後は、その息子の敏達→用明→崇峻と皇位は継承されていった。ところが、崇峻を殺したことで、もうその兄弟がいなくなってしまったのである。

研究者の大津透氏は、「大王の暗殺は異様な事態である。『日本書紀』には、『嗣位既に空し』と記すが、これは皇位継承者がまったくいなくなってしまったという意味である。つまり、崇峻で、欽明の皇子の世代の兄弟継承が終わるのである(だから馬子とそりがあわなくても即位したのだろう)」(『天皇の歴史01神話から歴史へ』講談社)と論じている。

暗殺がきっかけで初の女性天皇が誕生した

さらに大津氏は、当時の状況を分析し、欽明の孫の皇子たちはいずれも亡くなっており、最年長は19歳の用明天皇の子・聖徳太子であり、即位するには若すぎたと述べる。こうして、前代未聞の皇位継承がおこなわれることになった。そう、初めて女性が天皇の位についたのである。

河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)

それが敏達天皇の皇后で、馬子の姪である炊屋姫尊であった。

当時39歳の炊屋姫尊は、群臣たちから即位を依願されるが、前例がないこともあって再三辞退した。しかし最終的に引き受けたのである。こうして日本初の女帝・推古天皇が即位した。

同時に、聖徳太子が皇太子となり、推古を補佐する摂政の職についたと『日本書紀』は記している。この例が最初となって、以後、天皇の娘であり皇后である人物が、適当な男性の皇位継承者がいないとき、中継ぎとして即位するシステムが始まることになった。そういった意味でも、うかつな悪口で殺された崇峻が天皇制の在り方を変えたともいえるのである。

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