自分で即位させた天皇を暗殺した蘇我馬子

前代の敏達天皇が崩御したとき、穴穂部皇子は、敏達天皇の殯宮もがりのみや(正式な埋葬まで棺を安置しておく宮殿)に乱入しようとした。なかには皇后など特別な人間しか入れないのに押し入ろうとしたのは、『日本書紀』によれば、敏達の皇后で美人の誉れの高い炊屋姫尊かしきやひめのみことを強姦するのが目的だったという。

しかし、敏達の忠臣・三輪逆みわのさかうに妨害されて、入ることができなかった。これに腹を立てた穴穂部は、物部守屋と蘇我馬子にさかうの誅伐を命じた。馬子は躊躇したが、守屋が率先して攻め立て、最後は穴穂部が自ら逆を射殺したという。

これを見た馬子は「天下はまもなく乱れるだろう」と嘆いたというが、以来、蘇我系の皇族ながら穴穂部と守屋の関係は親密になったというわけだ。だから、用明天皇が亡くなると、馬子は穴穂部の即位を阻止すべく、炊屋姫尊を奉じて穴穂部皇子の殺害を佐伯連丹経手にふてらに命じた。

夜中に襲撃を受けた穴穂部は、肩を射られて楼閣ろうかくから落ち、その後、部屋に逃げ込んだが、兵士たちが探索してこれを仕留めた。そして翌月、馬子は大軍を率いて物部守屋を打倒したのだった。

皇位は3カ月以上空位だったが、同年9月、馬子は崇峻天皇を即位させた。崇峻も敏達、用明、穴穂部と同じく欽明天皇の皇子であった。母は蘇我稲目の娘である小姉君おあねのきみであり、馬子にとっては甥にあたった。こうして馬子は、完全に朝廷の実権を握ったが、それから5年後の592年11月3日、前代未聞の事件が起こった。そう、馬子が崇峻を弑逆しいぎゃくしたのである。

聖徳太子も崇峻天皇の言葉に驚いた

これより前の10月4日、崇峻天皇のもとに猪を贈ってきた者がいた。これを見た崇峻は、その猪を指さして「いつかこの猪の首を切るように、私が憎んでいる人を斬ってやりたい」と言ったのである。しかもこの時期、朝廷では普段とは異なり、なぜか多くの兵や武器を集めていたのだ。ゆえに馬子は、崇峻が自分を殺すつもりだと判断し、先手を打ったのだという。

聖徳太子肖像画(写真=時事通信フォト)

古記録によれば、この言葉を述べたのは宴のときで、聖徳太子(厩戸うまやど王)も側にいた。太子は大いに驚き、「今の天皇の言葉をほかに漏らしてはいけない」と、皇族や豪族たちに口止めしたが、一人の愚人が馬子に告げてしまったのだとされる。いずれにしても、崇峻と馬子の間には抜き差しならない対立があったのだろう。

馬子は、「今日は東国から調(税)をたてまつる日だ」と群臣を偽り、東漢直駒やまとのあやのあたいこまを送って崇峻天皇を殺害したのである。

一説には、直駒は驕慢きょうまんで怪力の持主であり、夜、天皇の寝室に入り、寝ているのを確認すると、剣で斬り殺したといわれている。なお、刺客の東漢直駒は、犯行後、崇峻天皇の妃で馬子の娘であった河上娘かわかみのいらつめを自分の妻にしたことが露見し、馬子の命令で殺害された。