ネガティブな解釈は、「ゼロを掛け算する」ようなもの

その結果、どんなに素晴らしい出来事も、それにネガティブな解釈をすることによって、主観的な価値はゼロになりえます。

積み重ねた努力が、あたかも無かったかのように感じてしまうのです。コツコツと足し算で積み重ねたものに、最後に「ゼロを掛け算」するようなものです。

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こうした人は、たとえ入った大学がハーバードだろうがスタンフォードだろうが、同じ解釈をしてしまうのです。

より良い方向を目指して発揮された努力は、それだけで尊く、賞賛に値します。ただ、それを自分自身で認めることができないのは悲しいことです。

願わくば、その過程の解釈を、できるだけポジティブなものにしてほしいと私は思うのです。

たとえいい結果につながらなかったとしても、「あれだけ頑張ったことが、自分の糧になっている」「あれだけ頑張ったから、今の自分がある」「あれだけ頑張った自分を褒めてあげたい」と思えるなら、その努力には大きな意味があり、決して無駄ではなくなります。

しかし、「自分を認める」ことができないままだと、どれほど努力を重ねても、自分を肯定できないどころか、むしろ「あれだけ頑張ったのに、まだこの程度だなんて、だから自分はダメなんだ」と、自己評価がさらに下がってしまいかねません。

そのようなネガティブな解釈はあなたの人生を幸せから遠ざけるものであり、手放すべきものです。

ありのままの自分を肯定できない病

そして私は、素晴らしいできごとにも努力にも実績にも、解釈のところで必ずネガティブな意味づけをして、「すべては自分がダメなせいだ」「だから私はダメなんだ」という結論に持っていき、自分の人生の物語をひどいものにしてしまう考え方の癖を「だからわたしはダメなんだ」病(DWD病)と呼んでいます。

DWD病の人は、ありのままの自分を肯定することができません。

「欠点だらけでも、できないことが多くても、存在しているだけで自分には価値がある」と思うことができないため、他の多くの人たちが価値を認めてくれそうな、立派な看板(学校や職業)を追い求めやすいといえます。

でも、努力を重ねて出した成果を認められ、褒められることで上がるのは「私には~ができる」という自己効力感や自己評価であり、それは「何はなくとも、自分は自分であって大丈夫」という自己肯定感とは異なります。

努力の結果、看板を手に入れれば、一時的には満足し、自信を持ち、自己評価も高まるかもしれませんが、そうした看板は、実は自分が本当に求めているものではなく、親など、他人の評価を満たすものであるため、自分自身は満たされません。

また、看板はあくまでも看板にすぎず、その人自身の存在としての価値とはまったく関係がないため、褒められても、「嬉しいけど、何かが違う」という思いがつきまとい、時間が経てば経つほど、それは膨れ上がっていきます。