御座所どうしをつなぐネットワーク

つまり秀吉は、本能寺の変のきっかけになった天正十年の信長出陣以前にも、信長の出陣計画ごとに、入念に「御座所」を整備していたのでした。

そしてこの秀吉文書が示すように、信長は自身の出陣に際して、その方面の軍事指揮権を与えた武将(この場合は秀吉)が責任をもってあらかじめ「御座所」をつくるよう求めたのです。

信長の出陣計画に合わせて無理やりにでも「御座所」をつくっておかなければ、信長の出陣も行われませんでした。

天正十年六月の備中高松城への出陣では、実際に信長が京都まで動座しました。このことから秀吉による信長のための「御座所」は、完璧に完成していたとわかります。

しかも「御座所」は一カ所つくればよいのではなく、信長の一日の行軍距離ごとに整えておく必要がありました。信長が大坂城を出て最前線の備中高松城の包囲陣へ到着するまでの間に、秀吉はいくつもの「御座所」を準備したのです。

文字史料から判明した信長出陣のための必須の施設「御座所」を踏まえて、兵庫城本丸のふたつの出入り口を並べた大改修を考えると、この改修が信長をお迎えする「御座所」として、ふさわしい格式を備えるために行ったことが浮かび上がってきます。

なぜそんなことが言えるのか? 実は城や館の正面にふたつの門が並び立つ姿は、室町時代以来の最高の格式を表現した権威のシンボルだったからです。

室町時代の幕府や管領邸などの高位の武士の館では、館の正面に将軍などの貴人が通るための特別な門「礼門」と、その他の武士たちが通った通用門のふたつの門が並び立ちました。「礼門」は通常は閉めていて、高貴な方をお迎えしたり、館の主が出入りしたりするときに開きました。それが「礼門」を通れる人の権威や身分を象徴したのです。

城郭考古学が解き明かした“奇跡”の正体

兵庫城はもともと当時の先進的で実戦を意識した城でした。本丸の正面に複数の門を開くのは、防御上のメリットがないため、発掘でわかったように当初の本丸正面の出入り口はひとつでした。

しかし「御座所」として本丸に信長をお迎えするとなると、信長も家臣と同じ出入り口を使うことになってしまい、問題が生じます。そこに堀の一部を埋めてふたつめの出入り口をつくったのでしょう。

実際に信長の安土城の山麓大手門では、主たる大手門の両脇に別の出入り口が並んで、少なくとも四つの出入り口があったとわかっています。信長は身分ごとの門の使い分けを厳格に意識していました。こうした証拠から兵庫城の改修は、信長の御座所のためだったと城郭考古学の視点から評価できます。