戦争を体験した人につながる遺族と取材者との境界線

戦時中、日本の輸送船団が上陸した「タサファロングの浜」からは、透き通った玻璃色の海の波間に、輸送船「鬼怒川丸」の船体の一部が今ものぞいていた。それは陸軍が徴用した輸送船で、多くの民間の船員が軍人とともに亡くなった。このガ島で餓死した一人に長嶋虎吉さんという二等機関士がいた。ちょうど行われていた慰霊祭には彼の遺族として孫が参列していた。

©KeikoHorikawa
ガダルカナル島・タサファロング。鬼怒川丸のデリックに遺族によって花輪がかけられている(2020年1月撮影)。

「みんなが浜辺で沖に沈んでいる鬼怒川丸を見て手を合わせていると、お孫さんがスイムスーツに着替えて、海の中へ入っていったんです。お孫さんは必死に泳いで鬼怒川丸の船体に抱き着き、花輪を捧げていました」

その光景を浜から見つめながら、堀川さんは自問したと続ける。

「私はガダルカナルまで来ながら、浜辺で手を合わせるだけで、海に触れようとはしなかった。あの波打ち際は彼らと私の間にある境界線だと感じました。本当に戦争を体験した人につながる遺族と、資料を読むだけで分かった気になっている取材者との境界線です」

証言ではなく、残された資史料で戦争に向き合うという挑戦

いったいどれほどの数の民間の船員が徴用され、死んでいったのか。正確な記録は存在しない。田尻や佐伯は民間船員に頼った輸送体制を危惧し、彼らを軍属か軍人にするか、あるいは「海技兵」という制度を作って身分を保障することを、参謀本部に再三にわたって要望した。だが、その具申は受け入れられず、国のために死んだ民間人が軍属として扱われ、恩給を支給されるようになるには、戦後の援護法の成立を待たねばならなかった。

「小型舟艇は田尻の作った船舶兵が動かしていましたが、大型の輸送船は最後の最後まで民間人がやっていたわけです。彼らは上陸作戦という戦争の最前線に送られたにもかかわらず、ほとんどの船員は亡くなっても何の補償もされない。陸軍には『兵站の軽視』だけでなく、輸送部隊における軍人と民間人という軽視もあったわけです。

堀川 惠子『暁の宇品』(講談社)

この本を書くうえで、私は船舶司令部の軍人だけでなく、そのさらに下に置かれていた軍属たち、船員たちの苦しみを決して忘れてはならない、と常に思っていました。ガダルカナル島での光景は、その気持ちをあらためて強くするものでした」

堀川さんは広島と原爆をテーマに、『チンチン電車と女学生』(2005年)、『原爆供養塔』(2015年)、『戦禍に生きた演劇人たち』(2017年)という3つのノンフィクション作品を書いている。10年の取材を経た本書は、それに連なるものだろう。堀川さんは「私にとってこの本は一つのテストケースだったという思いがある」と言う。

「私は広島と戦争を描くにあたって、これまではご存命の関係者を探すことに一生懸命になってきました。しかし、76年という歳月が経ち、それは難しくなっています。とりわけ戦争の構造を知る方にお話を聞くのはもう不可能でしょう。当時を知る証言者がいない中で、私たちは戦争にどう向き合えばいいのか。ほぼ資史料のみで書きあげたこの本はノンフィクションの書き手として、そんな一つの挑戦でもあったと思っています」

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