不審火騒ぎで罷免されるまで、田尻は闘い続けた
田尻は各省に向けて、日中戦争における軍事徴用の増大がいかに民間を圧迫し、国内の物流の妨げになっているかを訴えていた。日本の船舶輸送の危機的状況を説明し、南進論を牽制する彼の主張には、まさに〈捨て身の覚悟〉が感じられた。だが、そんな必死の意見具申を上層部は握りつぶす。その先にあったのが前述の「不審火」であった――。
「船舶司令部という組織で常にベストを尽くそうとする田尻の生き方が、戦争が近づいてくるに従って『国家』とぶつかった。では、『個』が正しいと思う方向と『組織』の意向が一致しなくなったとき、何が起きるか。不審火騒ぎで罷免されるまで、田尻は闘い続けたわけです」
また、田尻の軍人としての半生を追いかけながら、堀川さんは次のような思いにとらわれたと話す。
「『船舶の神』とさえ呼ばれた田尻ですが、一方で陸軍という組織の中では傍流の存在でした。彼は海に近い横浜で育ったとはいえ、もともと海洋や船舶についての知識は全くなかった。その彼は船舶司令部という予算もまともにつけてもらえない組織で、近代戦を戦うために必死にあがいた。大発動艇(大発)など新しい船の開発を世界に先がけて成功させるだけではなく、組織の改革にも言及し、軍政にかかわることにもかかわる大仕事もやる。そこに田尻という将校の凄味がありました」
もし田尻を活かしたまま、太平洋戦争が開戦していたら…
田尻は軍の船舶不足という課題を具申するだけではなく、実務家として優れた人物だった。例えば、「南進」を前に船舶不足を指摘する一方、彼は南太平洋海域での戦闘を想定した海上機動作戦を検討していたという。そして、そのための「SS艇」の開発を同時に進め、罷免される直前には試作艇まで作っていた。
「つまり、彼は意見を言うだけではなく、セカンドベストを用意していたわけです。こうした極めて冷静な実務家こそ、本来、組織は大事にしなければならないはずでしょう。参謀本部はそうした人材を切った。もし田尻を活かしたまま開戦し、作戦区域を限定して国防圏を固め、外交がもっと機能していたら、大きな構造の中では負け戦であっても、もう少し早い状況で講和のための有利な条件を引き出せたのではないか。日本のあらゆる都市が空襲で焼かれ、原爆を投下されるようなひどい状況にはならなかったのではないか。取材を続けながら、私はそんな想像をしたくなりました」
「船舶の神」を失った宇品は、アメリカとの泥沼の戦争に突入すると、次第に機能を失っていく。船舶が失われても最期まで兵站を支えようとする司令官たちの奮闘は胸に迫るものがある。