想定外の異動と度重なる逆風
やがて帰国した父と一緒に岡山市に住み、高校まですごした後、慶大法学部の政治学科へ進む。3年のときに入ったゼミで、卒論のテーマに日中貿易を選ぶ。父に「同郷だ」と聞いた岡崎嘉平太さんを訪ね、何度も日中貿易交渉について教わる。岡崎さんは全日空の社長で、社長室はいつも開けっ放し。みんなが、自由に出入りしていた。
64年4月、その全日空に入社。配属先は羽田にあった補給部の調達課で、乾電池や五寸釘、木綿の古い下着などの仕入れを担当する。木綿の下着は「ウエス」と呼び、油で汚れた機体や計測器を拭くのに使う。五寸釘は、かまぼこ兵舎のような格納庫が台風で飛ばされないように打ち付けるためだ。日々忙しく、160時間も残業する月があった。
6年して航務本部へ異動、さらに人事部の人事2課へ移って、採用担当となる。希望もしなかった部署が続き、描いていたイメージと全く違う道のりが続く。その後も、ずぅーっと、課題を与えられ続けた気がして、のんびりしたことはない。
ニューヨーク支店長から急きょ呼び戻され、人事勤労担当の常務に就いたときも、想定外だった。初の海外勤務で、営業マンになった気で顧客開拓に打ち込んでいたが、2年で終わる。97年春、運輸省(現・国土交通省)出身の名誉会長、会長の2人と生え抜きの社長が役員人事などを巡って対立。3人そろって退任して収拾することになり、新社長に指名されたのが、人事部で労使交渉にあたっていたときの上司だった。
2001年4月、社長に就任。「利益を1000億円、400円前後の株価を1000円に」と思い、社長専用車のナンバーを「1000」に変えてもらう。これも「前向き志向」の表れだ。だが、「9.11同時多発テロ」「SARS」「JAL・JAS統合」など強い逆風が吹き続け、「1000」は容易に実現しない。でも、「不將不逆」は変わらない。周囲が止めるなか「復配」を公言し、3年計画で300億円のコスト削減を掲げ、2年目で達成して復配にこぎつける。この間、品質、顧客満足、価値創造の3点で「アジアで一番に」の目標も打ち出す。
いま、稼ぎ頭はそのアジア路線。なかでも中国便は最大の牽引車だ。大連経由で北京へと、初めて中国へ飛んだのは87年4月16日。その日は、日中国交回復に尽力したあの岡崎嘉平太さんの誕生日に当たる。岡崎さんの強い思いは、社員全員で受け継いできたし、その先頭に立ってきたつもりだ。
2004年春、500キロの逃避行の末に逃げ込んだハルピンを、母と訪ねた。翌々年は、妻も加わって佳木斯に行き、子どものときに過ごした自宅周辺などを確認した。ハルピンを訪ねたとき、自社機の機内誌「翼の王国」に、自分の原稿があった。結びのほうに「旅先でその土地の文化・風土に触れ、風景を楽しみ、歴史に思いを馳せることは、心を豊かにしてくれる究極の贅沢であると思います」と記していた。
佳木斯には、もう一度行きたい。
「究極の贅沢」を楽しむためだけではない。確かめたいものが、まだ、残っている気がしている。