許智宏の話を聞いていて、文学者・魯迅のことを思い出した。留学生の魯迅に講義が終わるとノートを提出させ、細かな添削をして返して、勉学を助けた「藤野先生」の物語だ。どんなに日中関係が厳しくても、ひたすら学生や学友に誠実に接した日本人たちがいた。
もちろん、正反対の日本人たちもいたことは、魯迅の回想「藤野先生」でも描かれる。だが、魯迅は中国に戻っても、その後も長く藤野先生の写真を見ては自身を励まし、混迷する中国で果敢な文芸活動を続けていった。北大にも「藤野先生」がいた。坂村とその弟子たちであった。
「そんなことがあって、私自身やがて、植物学の世界で多くの日本人学者と知り合い、彼らの業績には大いに感服するようになった」
「いま世界中で種なしスイカを食べるようになったが、誰がそれを開発したか、知る人は少ない。日本の遺伝子学者、木原均(一八九三~一九八六)だ。私自身、研究生活に入って初めて、遺伝学分野で日本の研究者がいかに多くの目覚ましい成果を生み出したか、分かるようになった」
深い傷を負っても切れない絆
許智宏は、二〇〇八年に来日した際、どうしても恩師が坂村徹らのもとで学んだ北大を見てみたいと思い、訪ねて行った。木原も北大で坂村の後輩にあたる。
明治の木造建築をそのまま使う北大農学部博物館に行き、坂村の写真や当時の研究論文を見て回るうちに、強い感動に襲われた。
「あの時代の日本の科学者たちは、いかに乏しい資材と施設で、なんと多くの素晴らしい、世界的な研究成果を挙げていったか。はじめてそのことが分かった。感銘に震えるほどだった」
許智宏の話を聞いている私も、別の意味で感銘を受けた。家族の中に恐怖のあまり発狂して死ぬ者がいた戦争の傷跡を持ち、日中の和解にも割り切れない思いを抱いたのに、学問の世界に入ったことで、日本への印象を一八〇度転換させた。それは近代科学の世界を純粋に、ひたすらきわめていった坂村、木原のような人物を近代日本が生み出しえたからだ。
彼らは取り立てて外国からの留学生に特別なことをしたわけではない。ただひたすらに研究に没頭する姿を見て、留学生は何かをつかみ取ったに違いない。解剖学者であった藤野先生も、ひたすら教育者としての自己の役割を果たし、その姿に魯迅は学んだ。
かつて日本は、乏しく貧しい施設しかなくとも、東アジアにおける近代科学知識の源となった。「抵抗としての東洋」の知の中核として、世界的な科学者を生み出してきた。戦後多くのノーベル賞学者を生み出したのは、その遺産だろう。その力は徐々に中国に移りつつある。昨今の日本の大学内の様相を見るとそういわざるを得ないほど、ある世代以降の日本の学知とそれを支える人材は荒涼としているように思える。