心理学で目指すのは「ノーマル」

一般的には、たいていの人間について、「べつに問題のないノーマルな人間だ」と考えますね。ちゃんと勉強できて、ちゃんと仕事があって、ちゃんと結婚して家族がいてうまく生きているから、それで問題はない、という理屈です。

アルボムッレ・スマナサーラ『心は病気:悩みを突き抜けて幸福を育てる法』(河出書房新社)

確かにそれくらいのレベルでいえば、そのとおりです。そして、その中にたまに「ノーマルでない人」が現れる、という認識ですね。

「ノーマルでない」とされる例をいくつか出しましょう。

小さいときであれば、学校に行きたくない、行ってもなかなかみんなと仲良くできない、何を勉強してもすぐ忘れてしまう、まるっきり勉強に興味がない。そんなところですね。就職をするころになると、面接がいつもうまくいかないとか、人に会うとしゃべれなくなってしまうとか。いざ会社に入ってもみんなとうまくいかない、お金が入ったらすぐにぜんぶ使ってしまう、借金するクセがついてしまった。そんな人もいます。

変なことに手を出して、それがないと落ち着かない人もいますね。酒やタバコがやめられなくて、麻薬の依存症みたいになってしまったりとか。賭け事なんかも同じです。ひどい人は借金してでも毎日パチンコをやってしまいますね。家庭を持っている人であれば、家族の人間関係がうまくいかないという問題もあります。

一般的な世の中では、そういうものを精神的な問題として扱っているのです。「普通」の子供だったら学校に行って、仲良く遊んで楽しく勉強する。それが普通なのだから、できない子には何か心の問題がある、というわけです。

この論理で見れば、問題を抱えている人々は一般社会のレベル以下ですから、精神科の世界から人々を助けて、普通の状態にまで上がれるようにしてあげるのです。わかりやすいといえばわかりやすいですね。

まず病気を治してから

精神的に弱い人の問題だけを、わざわざ取り上げて扱うのは仏教の仕事ではありません。仏教は科学的な宗教ですから、もしも精神的な問題を抱えているなら、まずはその分野のお医者さんに看てもらって病気を治してから来るべきなのです。

自分で「私は元気だ」と感じられるようになってから、こちらに来てもらえば、仏教的に見た根本的な病気を治してあげることができます。そしてさらに、心をもっと上のレベルに持っていけるでしょう。

たとえば人が足の骨を折って歩けなくなり、車椅子で移動しているとします。そうすると、お釈迦さまはまず「お医者さんのところに行って骨を治して、歩けるようになってください」と言います。

その人は、骨を治してリハビリをして、普通に歩けるようになったところで、またお釈迦さまのところに来ます。

ところが、その人が「今はもう元気で歩けますよ」と言ったら、お釈迦さまはこう言うのです。

「いいえ、あなたは歩けていません。ものすごくのろい。どうせ歩くなら、人間ではないかのように速く歩けなくてはいけないのです」

そして今度は、ただ歩くのではなく、猛烈な速さで歩く方法をコーチしてあげるのです。心理学と仏教の差とは、こういうことなのです。だいたいこんなイメージで理解していただければいいと思います。

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