インターネットは「ひとつのグローバル社会」になった

「現実社会以上に自由にふるまえるローカルな場所」を求めて人びとはかつてネットに集まった。実際にインターネットにはたくさんの「ローカル」が担保されていた。ひと昔前に栄えた、無数のトピックごとに分かれた匿名掲示板などはその典型だ。だが、やがてネットは「ソーシャル・ネットワーク」の発明とその発展にともなって「つながりすぎた」がゆえに「ローカル」の余白はどんどん埋め立てられ、ひとつの「グローバル社会」になった。

現実社会以上に他人とのつながりが構築され、他人の言動が可視化され、他人とコミュニケーションできる空間――。それは情報ネットワーク・コミュニケーション技術の進歩や進化の象徴であるとして一時は歓迎されたが、しかし人びとが大切にしていた「不文律」「自分の価値観」がそこでは一切通用しなくなった。人びとは少しずつ閉塞感を覚えるようになっていった。

相変わらず、SNSでは人はさまざまな興味関心について話しているし、自分の意見を表明している。一見すると自由があるように見える。だが実際のところ、人びとは「グローバル」な秩序体系から逸脱しないように細心の注意を払いながら、薄氷を踏む思いを味わいながら自由に意見表明をしているだけだ。

……それを本当に「自由」と呼ぶべきか?

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自由につながりすぎたゆえに、不自由になった

「グローバル」で「ボーダレス」なネット空間で提供される「息苦しい自由」によって、皮肉なことに現実社会のコミュニケーションは相対的に「すばらしいもの」になってしまった。

ネットと違って現実社会のつながりには「ローカル」な余白がいまもなお保存されているからだ。かつては現実社会のローカルを息苦しいと思っていたはずなのに、いまではネットより現実の方が断然に余白があって「自由」なのだ。これほど皮肉なこともない。

現実社会のクローズドなつながりなら「いつもなにかに怒っている人」に見つかって予期せぬトラブルに巻き込まれることもないし、自分の発言ログを掘り起こして「最新の倫理観や価値観ではそのような発言は許されない」と職を失わせようとする人もいない。

ネットは「現実世界にはない自由な地平と自由なつながり」を切り拓いてくれるものとして人びとから期待された。だがその期待はあえなく潰えた。期待したほどの自由がなかったからではない。期待以上に自由につながりすぎたがゆえにだ。