新型コロナウイルスの世界的な流行は、人々にインターネットの便利さを実感させた。だが、文筆家の御田寺圭さんは「『ネットのつながりは現実の代わりにはならない』という声を聞くことが増えた。原因は“つながりすぎ”ではないか」という――。
人のピクトグラムに囲まれたスマートフォンをゴミ箱に入れるイメージ
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです

「不安・不満・怒り」が溢れている

「うーん、最近はネット見なくなったなあ。現実の方が自由だから(笑)」

――と、先日一緒に食事をしたとある知人から言われた。

「むかしはネットの方が自由で、現実じゃ言えないことを言いあえるような空間だと思ってたんだけど、最近だと『その話はネットで言うのはまずいから、オフで会ったときに話そう』ってな具合になってきて、もうネットをやってる意味なんかないなと思うようになってきた」

そう語る彼は、ひと昔前までSNSでもそれなりに発信していた、なおかつそれなりのフォロワー数と知名度のある人物だったが、最近では数カ月に1回程度の発信になっていた。

彼にかぎった話ではない。「結局は現実のつながりがどれだけありがたいものなのかわかった」「ネットのつながりは現実のつながりを代替できない」といった声が、ちかごろ私の周囲でどんどん聞こえるようになってきた。皆さんの周囲でもそうではないだろうか。

外で人と対面的に会うことが「望ましくない」「不道徳」「反社会的行為」とされたニュー・ノーマルの時代において、人びとはやむを得ずインターネットやSNSを経由したコミュニケーションを現実社会のそれの代用とした。

だがそこで多くの人は、ネット空間は現実世界のように自由ではなく、すでに「閉塞」が広がっていたことに気づいた。右を見ても左を見ても、だれかの不安や不満や怒りが共鳴してそこら中でぶつかりあい、迂闊なことを言えば容易く炎上して「キャンセル」されてしまうような殺伐とした緊張感が、いまのインターネットには蔓延している。ようするにギスギスしているのである。

ネット世界に「ローカル」な場所がなくなった

現在のネットには「ローカル」なスペースをつくる余白がほとんどなくなってしまっている。すべては「グローバル」な空間としてシームレスにつながっているからだ。

ありとあらゆる場所がつながりをもって「グローバルな公共空間」になってしまう現在のインターネットの世界は、「この場所、この相手となら、こういうやり取りを気兼ねなくやれるコンテクスト(不文律)がある」という前提をすべて喪失させてしまった。

私たちが「自由」を実感できるのは、どのような場所でも野放図にふるまえるときではなくて、自分の考えや価値観のコンテクストがストレスなく共有される空間や人間関係に身をおいたときだ。だが現在のインターネットやSNSには「自分のコンテクストをストレスなく共有できる余地」がない。だからこそ「自由」を感じられない。圧迫感や閉塞感を感じる。

つねに緊張を強いられ、見ず知らずのだれかの視線に怯えながら、自分の本当に言いたいことや価値観を押し殺して、「グローバル」な規範とコンテクストに沿ったコミュニケーションだけに終始する。いまインターネットに接続していると、ただそこに「接続している」だけでなくて、そうしているうちに自分自身ならではの価値観や考えを抑圧されているような感覚や、それらを剥奪されているような感覚ばかりが蓄積してくる。