ネットを使えば使うほど、現実の快適さに気づく

文章にすると本末転倒にしか思えず哀しいが、人びとは「本当の自由」を求めて、ネットから現実に還りつつある。

ウィズ・コロナの時代における「新しい生活様式」によって、人びとは外に出られなくなった。お互いの唾液が飛散するのを恐れて対面のコミュニケーションを忌避するようになった。それにともなってネットの接続時間が長くなった。ネットで出会う人びととのつながりを現実の人間関係の代わりにしようとした。

だが、そうすればするほど「ローカル」な余白のある空間に担保された「同質性」の快適さに気づいてしまった。「グローバル」な規範と秩序によって統合された人間同士が、いかにストレスフルで、不自由で、窮屈で、殺伐としているのかを思い知らされた。

「グローバル」なつながりのなかに身をおくほど、学歴、年収、職業、生活習慣、行動様式、価値観、性格、認知的傾向が整えられている同質的な人びととの「ローカル」なコミュニティの快適性と優位性が強調されていった。「グローバル」な秩序や規範と地続きでない隔絶された場所に身をおくことで、ようやく自分らしくいられる実感と安心を得たのだ。

一筆書きで描かれた談笑する人びとのイラスト
写真=iStock.com/Tetiana Garkusha
※写真はイメージです

「グローバルでボーダレスなひとつのムラ」が奪うもの 

冒頭で述べたとおり、いま「ネットが息苦しい、現実の人間関係の方が落ち着く」という人が相次いで現れている。皆さんの周りも――あるいは皆さん自身も――そうかもしれない。それは気のせいではない。

インターネットはかつてのように「ローカル」のコンテクストが近しい者同士が小さく集まる場所ではなく、すべての人を「グローバルでボーダレスなひとつのムラ」に押し込めるものとなってしまったからだ。

現実社会で持っていたそれぞれの「ローカル」なコンテクストやカルチャーや価値観や行動様式や思想信条は、「グローバルでボーダレスなひとつのムラ」では厳しく検閲を受けてしばしば制約される。制約されるくらいならまだましだ。それによってときに激しい社会的制裁を受けることすらある。

「グローバルでボーダレスなひとつのムラ」への統合事業はきわめて急速かつ暴力的なものだ。それぞれが現実世界で大切にしてきた「ローカルなコンテクストや価値観」こそが、自分が「自分らしさ」を感じるなによりのよすがであるのにもかかわらず、それらを無理やり剥奪していく。