現時点での「犯行動機」は真実とは限らない

「だれでもよかった」というありきたりな表現の場合は「だれか特定の人を私的なトラブルや怨恨で狙ったわけではない⇒つまりだれでもよかった」という意味合いで、一般の人が想定する「だれでもよかった」の表現に含まれるニュアンスとは異なっている場合がしばしばある。

「だれでもよかった」「むしゃくしゃしてやった」「いまでは反省している」など、事件発生直後に錯綜するさまざまな犯行動機は、必ずしも真実であるとはかぎらない。多くの人の記憶に刻まれる「秋葉原通り魔事件」がその典型である。初報段階でメディアに流れていた「負け組の怒り」「いわゆる『毒親』による教育の失敗」「非モテの怒り」は真実ではなかった。被告人の口から裁判で語られたのは「自分の大切な居場所だったネット掲示板でなりすましをやめさせたかったから」だった。

犯行の直接の動機としてはさまざまに推測されうる(そしておそらくは複雑な個人的ライフヒストリーにおいて複合的に影響し合っている)が、それは今後の取り調べや裁判で真実が明らかにされるのを待たなければならない。よって本稿では、今回の事件の容疑者の個人的な動機の具体的断定ではなく、多くの「通り魔事件」に共通する一般論としてのマクロな「背景」を考察する。

「通り魔」たちに共通する「疎外」という背景

凶行に及んだ最終的な個人的動機(トリガー)がなんであったにせよ、具体的な動機の内容にかかわらず、現代社会の「通り魔」的な事件のほとんどに大なり小なり共通している心理社会的背景は「疎外」である。

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法務省の「通り魔」についての統計調査資料『無差別殺傷事犯の実態』によれば、こうした「通り魔」的犯行に及ぶ人びとは、住所不定者や施設入所者の割合が高く、また交友関係も狭く交際経験も乏しく、半数以上が無収入者であることが確認されている。相当過大に見積もっても、かれらのほぼ全員は恵まれた社会生活を送っている者ではない。社会的・経済的・人間関係的に厳しい状況にある人びとである。かれらはその厳しい状況のなかで、人間社会そのものに絶望や憎しみを抱くようになっていった。

私たちはこうした「社会的・経済的・人間関係的に厳しい状況にある人」を自分たちの手で助けようとすることは少ない。助けるどころか、可能なかぎりにおいて自分の傍から遠ざけて疎外する。ただし、疎外するときの態度はけっして冷酷なものではない。「自分が相手を拒絶した」というある種の《後ろめたさ》を負わなくてもよいように、とても美しく思いやりのある表現によって丁寧に装飾加工がほどこされている。