「小さなノーサンキュー」の積み重ねが絶望を生み出す

「あなたには、もっとふさわしい時期があるよ(ただしいまではない)」

「あなたには、もっとふさわしい場所があるよ(ただしここではない)」

「あなたには、もっとふさわしい相手がいるよ(ただし私ではない)」

「あなたには、もっとふさわしい場所や相手がいる」というやさしいオブラートに包まれた言葉によって、自分にとっての「厄介者」を首尾よく遠ざけることに成功した人びとは、しかし自分が追放したことすら自覚していないこともまったくめずらしくはない。

ある人にそうやって「やさしげな言葉」でもって追放された人は、別の場所でもやはり同じようにだれかから「やさしげな言葉」によって追放され、遠ざけられている。世間の人びとが「私は包摂しないけど、きっとほかのだれかが代わりにやってくれるだろう」と小さくパスしあった結果、だれからも包摂されず、だれからも肯定されず、だれからも承認されない「疎外者」が、だれにも見えない場所で生まれる。人びとに不可視化された「疎外者」たちは、統計データによってようやくそのおぼろげな輪郭が見えてくる。

だれかの激しい憎悪や迫害の結果として「疎外者」が生まれるのではない。皆が自分の「加害者性」を自覚しないで済むようにと洗練させてきた「小さなノーサンキュー」が積もりに積もった結果、巨大な疎外と絶望をつくりだすのだ。

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写真=iStock.com/nzphotonz
※写真はイメージです

現代社会が快適なのは「厄介者」を犠牲にしているから

この社会で生きる全員が「厄介者」を、自らの手で直接包摂することをせず、ほとんど無意識的に(罪の意識を感じることがないような方法で)辺縁部に追いやり、不可視化することを選んでいる。

「面倒くさい人間・無能な人間・厄介な人間・キモい人間・有害そうな人間」にかかわらなくて済むような社会を理想として推進してきたことで、私たちは「自由で平和で快適な社会」の恩恵を最大限享受することができている。

私たちの視界から排除された「疎外者」は、ただ私たちの視界から見えなくなっただけで、その存在が実際に消えたり、すぐさま死んだりしているわけではない。疎外と孤立のなかでじっくりと心身を蝕まれていく。多くは人びとの目につかない場所でひっそり生き、そして消えるように世を去っていくが、しかしきわめて少数の人びとによって「暴発事故」が発生することになる。具体的な件数にしてみれば、毎年1件以上は無差別に人を襲撃する事件が起きているだろう。