しかも、それによって手に入れた領国内に「朝倉孝景条々(別名、朝倉敏景十七箇条)」と呼ばれる分国法を制定したことなどから、北条早雲(伊勢宗瑞。1456?~1519)と並んで“最初の戦国大名”とも評される人物である。

そんな目的のためには手段を選ばないマキャベリストの彼は、当然ながら、自身の領内にある寺社や公家の荘園に対しても容赦がなかった。荘園の管理役としての代官職を手に入れると、その権限をテコにして、彼は次々と荘園年貢を横領して、恐れ入る様子もなかった。

そのため、当時、孝景の存在は公家や僧侶たちからの怨嗟えんさの的となり、彼が病死したとき、ある公家などは「おおむね、めでたいことではないか。彼は天下の悪事の張本人である」と日記で快哉かいさいを叫んだぐらいである。前時代の権威など物ともしない、“最初の戦国大名”の面目躍如たる逸話であろう。

興福寺に屈した朝倉孝景

さて、興福寺も越前国内に河口・坪江荘という大きな荘園をもっており、そんな孝景の専横に頭を痛める領主の一人だった。

朝倉英林孝景肖像画(写真=福井県福井市心月寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

寛正五年(1464)5月、孝景は興福寺領河口荘のうち、自分の意志に従わない細呂宜郷(現在の福井県あわら市)の村を、こともあろうに焼き討ちにしてしまう。しかも、現地では孝景に反抗的な態度を示している3人の百姓が、現在も拘禁されているという。

それ以前からの不当行為も重なって、ついに興福寺はこれを重大視し、ことの次第を室町幕府に訴え出た。しかし、室町幕府も孝景には強く出ることはできず、訴訟は棚ざらしのまま、いっこうに進展しない。

しびれを切らした興福寺は、ここでついにお得意の“最終兵器”の使用に踏み切る。悪逆無道な孝景の「名を籠める」のである。同年6月24日、彼の名前を記した紙片は寺内の修正手水所の釜のなかに納められ、呪詛が開始された。

さすがの孝景も、これには参ったようである。彼も“中世人”、やはり呪詛は恐ろしい。興福寺で隠然たる力をもっている安位寺経覚(1395~1473)という大物に泣きついて、ひたすら制裁の解除を求めた。そこで、もともと孝景とは交流もあり、男気のあった経覚は、このとりなし役を快く買って出て、孝景に「二度とこのようなことはしない」と記した起請文(神仏への宣誓書)を提出すれば、罪を赦してやることを提案した。

8月10日、京都の二条家の屋敷に孝景はしおらしく出頭し、経覚はじめ寺僧たちに「今後、興福寺をなおざりにすることはせず、忠節を尽くします」という起請文を提出し、彼らの見ているまえで文書に署判を据え、これまでの不届きの一切を謝罪した。かくして、“最初の戦国大名”とまでいわれた朝倉孝景も、興福寺という中世権力の権威のまえに惨めな屈服を強いられたのである。