「お妾VS本妻の壮絶バトル」の思い出話
6年前に亡くなった私の父は昭和6年の生まれでした。
生前酒を飲むと問わず語りに小さい頃の思い出話を披露してくれたものでしたが、いまでも笑えるのが、「叔父さんのお妾さんと本妻との壮絶なバトル」でした。
「いや、そりゃもう激しくてなあ。あれ見て怖いと思ったわ」などとよく言っていましたっけ。
あの頃は本家の長男は脇に女性を抱えるのはむしろ甲斐性のような時代だったのです。父は、満州事変の翌日に生まれていますので、つまり日本が中国と戦争しているという今以上に「とんでもない」時期に、長野の片田舎の一般庶民はある意味不倫が日常、つまりはデフォルトの時代だったのであります。
今からわずか7、80年前まではそんな時代だったのです。
ここで、私は、「昔の方がおおらかだったから、今の不倫を許してあげましょう」などと全女性を敵に回すような発言をしたいのではありません。
そうではなく、「戦時中というコロナ禍以上の苛烈な環境でも、人というものは陰でこっそり逢瀬を楽しむなどのことをしてしまうものなのだ」ということを訴えたいのです。
これこそがまさに師匠・談志の唱えた「落語とは人間の業の肯定である」に通底するのではないでしょうか?
「男は最後の最後までバカだった」
落語には不倫を取り上げた作品があります。代表的なのが「紙入れ」という作品です。
あらすじは、こんな感じです。
とある大店の手代の新吉が、お得意先のおかみさんに誘われ、その旦那がいない晩、魔が差して一線を越えてしまう(ここは落語家によって演出が分かれるところです。私は「一度は寝てしまった」という設定にしています)。
その10日後、「今晩、また来てほしい。もし来なかったらこちらにも考えがある」という意味深な手紙を受け取り、悩んだ揚げ句出かけて行く。
真面目な新吉は「今日は帰ります。10日前の出来事はなかったことにしてくれ」と訴えるのだが、「もし今晩帰ったりなんかしたら、旦那が戻ってきたときにあることないこと言うから」と脅されてしまう。もうどうにでもなれとやけになった新吉は、大酒をあおり、布団へと横たわる。
「いざ」というそんな時にいきなり旦那が帰宅してしまう。慌てた新吉はおかみさんの計らいで辛うじて逃げることができたのだが、その家に旦那にも見せたことがある紙入れを置き忘れてきてしまう。しかも、紙入れの中にはおかみさんからの『今晩また来てね』という手紙が入っていたのだった。
新吉はその晩は一睡もできずにあくる朝、その家を訪ねて行く。
運よく旦那は何も知らない様子で安心したのだが、新吉の様子の異変に気付かれてしまったので、新吉は、「別の家のこと」のように今までの経緯と昨日の一件を打ち明ける。
そこへ浮気相手のおかみさんが寝起きでやって来る。呑気な旦那は自分の家の出来事とは全く思わずすべてを女房に打ち明けると、女房は「紙入れはあとでその奥さんがきっと返してくれるはずよ」と新吉を安心させる。そして旦那は「てめえの女房を獲られちまうような野郎だから、そこまでは気が付かねえだろ」というオチを言う。
いかがだったでしょうか?
「男は最後の最後までバカだった」という安心感からいつも最後のところで笑いがクライマックスになるネタであります。