「聖域」の本田技術研究所にもメス

さらに、八郷社長は「ホンダのDNA」を育み、聖域とされてきた本田技術研究所にもメスを入れた。同業他社と異なり、開発部門を子会社として独立組織とした開発体制は、ホンダ本体の販売、収益にとらわれることなく独創性に富んだクルマ作りを生み、「ホンダらしさ」の源泉にもなっていた。

半面、開発の非効率さやモデル数の増加につながったとの指摘もホンダ本体から上がっていた。このため、八郷社長は2020年4月に研究所の四輪車部門をホンダ本体に組み込むという研究所の改革を断行した。

ホンダの歴代社長の社歴を見れば、八郷社長ただ一人が研究所社長を経験していない。うがった見方をすれば、しがらみがないからこそできた“荒業”と見るのは、言い過ぎだろうか。

八郷社長「やり残したことはない」

八郷社長は前任の伊東体制で推し進めた「世界販売600万台」を撤回し、その残務整理と軌道修正に6年間を費やしたといっても過言でない。

ホンダの販売店が掲げているロゴマーク(撮影=プレジデントオンライン編集部)

ヒットモデルにも恵まれず、国内四輪車販売は軽自動車「N」シリーズの好調さだけが際立ち、利幅の薄い軽自動車が支える国内四輪車販売の現実に「ホンダは軽メーカーになり下がった」との酷評も飛び交った。そんな中では、八郷社長はホンダの再起に向けて“憎まれ役”に徹した印象も拭えない。しかし、それだけ拡大路線をたどってきたホンダが病んでいた事実は否定しようもない。

2月19日の社長交代発表の記者会見で、八郷社長は「やり残したことはない」と述べ、自ら手掛けたホンダの軌道修正に後悔する姿をみじんも見せなかった。むしろ、伊東体制で背伸びした拡大路線を正し、ホンダ復活への足場固めが整い、後任の三部専務に「ホンダの未来」を託すというシナリオを描いている。そんな思いがその言葉の端々からもうかがえた。

それは、八郷社長は4月1日付で代表権のない取締役に退き、6月に開催予定の株主総会で退任するという、潔い去り際にも表れる。