猪木さんはモハメド・アリや柔道家と試合をすることで、プロレス界に異種格闘技を持ち込みました。

馬場さんも異種格闘技を1試合だけやりましたが、基本、馬場さんは猪木さんが異種格闘技に走ったので、プロレス道に突き進みました。「向こうが格闘技的なことをやるなら、こちらは純プロレスでいこう」と思ったに違いありません。途中から、一切、格闘技を入れなかったのです。

上と下に挟まれた「中間管理職」芸人として

たぶん猪木さんが考えたプロレスを実践しなかったならば、馬場さんはどんなプロレスをしていたか、わからなかったのではないかという気がします。お互いが影響し合うことで、あのようになったのでしょう。猪木さんの異種格闘技があったから、馬場さんは純粋にプロレス道に進むことができたとも言えます。

ビビる大木さん(撮影=大沢尚芳)

僕の想像ですが、「明るく・楽しく」の中には「正しく」という意味も入っていたのかもしれません。

僕もネタでたまに使うのですが、「たかがビビる、されど大木」というのも、座右の銘になりそうな気がしています。自分の芸能生活はその一言に尽きるかなと思うからです。

巨人軍のエースだった投手の江川卓さんの書籍に、似たようなタイトルの書籍がありました。『たかが江川されど江川』。その書名が僕の頭に残っていました。

名球会入りの条件である200勝投手ではありませんが、江川さんは高校時代から「怪物」でした。全盛期の日米野球では、大リーガーの打者から、三振をガンガン奪っていました。

「ビビるだけど、されど大木だな」とは、その上と下の芸人に挟まれた人間の哀愁が世に伝わればと思い、使い始めました。まさに、「お笑い中間管理職」の独白です。

激動の時代を生き抜いた渋沢氏の金言

目的通りにいかない時は、まだ時は至らぬという気持ちで勇気を持って我慢しよう――よく事を通じて、勤勉であっても、目的通りに事の運ばぬばあいがある。これはその機のいまだ熟せず、その時のいまだ到らぬのであるから、ますます勇気を鼓して忍耐しなければならない。【『渋沢栄一訓言集』処事と接物】

新しい価値観ががんがん日本に入ってきた時代が、明治時代でした。

渋沢さんは新しい価値観が入ってきた明治という時代を、よく理解されていたのだろうと思います。求められるのは、切り替えだと思います。渋沢さんは新しい価値観への順応力がとても高かった方だったと言えます。

時代が変わり、徳川幕府はなくなってしまいました。暮らしている僕たちの生活は変わらないけれど、何か世の中が変わったと察して、渋沢さんは考えて行動されていたと思います。