自分の人生に「離婚」という言葉が登場するとは

今になってみれば「なんで、あのとき一言……」と、我ながら情けなくなる。だが、当時はまだ20代前半で社会人になったばかり。職場での立場や当面の生活を考えると、信念を貫き通すことができなかった。無意識にぼくもいじめに加担していた。信念と保身を天秤にかけて前者を選ぶことが、ぼくにはできなかったのである。

正義を標榜することはたやすい。しかし、正義を貫きとおすのには胆力がいる。信念を掲げても、言葉が、体が瞬間的にはそう反応しない人間の「弱さ」。観念的な信念は、生活の利害関係と衝突すると脆く崩れ去る。ぼくの人生は、それの繰り返しだ。

結婚についても考える。ぼくは離婚するまで、まさか自分の人生に「離婚」という言葉が登場するとは思ってもいなかった。そんなに上等な家族観を持ち合わせていたわけではないけど、なんとなく結婚したら死ぬまで添い遂げるのが普通だと思っていた。結婚という制度とはそういうものなのだと深く考えもせずに信じ込んでいた。

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だが、婚姻届を出したからといって「今日から、ぼくは夫です」と社会的な役割や期待を引き受ける……、なんてことにはビックリするほどならなかった。制度はあくまで制度であって、人と人との営みを一つの形態に当てはめたものが結婚という制度に過ぎないからだ。その形態に当てはまらない夫婦だっていくらでもいるし、制度の不足分を補う約束を作ったとしても、そのとおりに心が駆動するとは限らない。

離婚を経験するまで自分は心が強い人間だと思っていた

たとえば、渡辺ペコの漫画『1122いいふうふ』で描かれている「婚外恋愛許可制」について考えてみる。ささいなすれ違いでセックスレスとなった主人公の夫婦は、家庭外での恋愛を許可するルールを作った。はじめのうちは上手く機能し、むしろ夫婦仲は深まったくらいだったが、そのうちその制度は脆くも破綻する。人間の「弱さ」について勘案していなかったことが一因だ。二人で話し合い、理性で作った制度なら完璧だと思っていても、人間の「弱さ」を前提としていないものは、砂上の楼閣とほとんど同じである。

なにより人間は変わる。一方で結婚は、基本的には何十年スパンで考えなければいけないものである。主義や価値観が合った夫婦同士でも、時が経てばお互いどうしようもなく変わるし、老いもする。実際に、実家に帰ったら親が極端に偏った政治思想を持つようになっていて驚いた、なんてことはそこら中で起こっている。ひとりの人間の主義や価値観は不変ではない。

ぼくは、離婚を経験するまで自分は心が強い人間だと思っていた。どんなことも理性と知性の力で乗り越えられると信じていた。そうできない人は、努力が足りないのだと思っていた。もしかしたら、今でいう「自己責任論」なんかにも加担するタイプだったかもしれない。

しかし、すでに述べたように離婚により心は簡単に崩れ、たくさんの人やものにすがった。その一つがアルコールである。この「魔法の水」の前でも、ぼくは徹底的に弱くて無力な存在だった。