第三の課題:「経済>環境」から「環境>経済」への転換

なぜ「技術開発」だけでは達成が困難なのでしょうか。

連載の第1回で「1990年からの約30年間、省エネ技術はかなり普及したにもかかわらず、温室効果ガスはわずか2.8%しか減っていない」という「不都合な事実」を述べました。

加藤三郎『危機の向こうの希望 「環境立国」の過去、現在、そして未来』(プレジデント社)

なぜ2.8%しか削減できなかったかというと、たとえば、夏に猛暑が続いて一日中エアコンをつける、冬に寒波が襲って暖房用のエネルギー消費がかさむ、ネット通販や物流網が発達して注文した翌日に品物が届くような配達頻度の高い物流網が構築される、そうしたことがごく当たり前の日常になりました。

さらに社会全体を見渡せば、食べきれない量の食、着まわせない量の服が生産され、1日24時間眠らない街、1年365日休むことのないサービスが提供されています。つまり、生活に便利さや快適さを求めて、それを実現してきた過程で、ある単位当たりのエネルギー消費量は削減・省力化が果たされてきていても、それを行使する場と機会と頻度が大幅に増えてしまい、トータルでの温室効果ガスの排出量は思ったほど減らせなかったというのが、これまで30年間の「不都合な事実」の基底にあるからです。

エネルギー消費の無駄を「社会全体、生活全般」で減らす

極論であることを承知でいえば、2020年の日本で30年前の1990年と同じ様式で生活が営まれていると仮定すれば、日本の人口が少し増加したとか、東日本大震災の原発事故によって火力発電、とくに効率の悪い石炭火力に頼らざるを得ない時期があったといった事情があったにせよ、その間に進んだ省エネ・省電力との差し引きの成果がわずかマイナス2.8%と、ほとんど打ち消されてしまうような結果になることはなかったと思います。

つまり、この先いくら技術開発を進めていったとしても、再生エネに切り替えていったとしても、日本国民が今日の便利さ・快適さを今後もさらに追求していく考え方でいる限り、温室効果ガスの排出量は期待されているほどには減りません。国民の一人ひとりがある程度の「抑制」を受け入れ、エネルギー消費の無駄を社会全体、生活様式全般で減らしていく心構えを共有しない限り、「温室効果ガス実質ゼロ」が達成できないことは、すでに証明されているのです。

コロナ禍で「制約・抑制」を受け入れた日本人

今年4月、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため「緊急事態宣言」が発令され、「不要不急」の外出が制限されました。これによって第2波の山を抑制し、医療現場の崩壊を免れることができました。

今日、感染拡大の第3波が発生していますが、ワクチンや治療薬が開発され、国民に十分に行きわたる状況が作りだされるまでは、不要不急の外出自粛、3密の回避、GoToキャンペーンの制限など、ある程度の制約や抑制が強いられても仕方ないと受け入れている国民が多く存在していると思います。そうでなければコロナ禍を乗り切れないと理解しているからです。

環境危機は「人類の英知」で食い止められる

気候危機などの環境危機は、コロナ危機と同じように、あるいはそれ以上に人命や財産を奪う恐ろしい危機ですが、その進行は穏やかで、長期間にわたり、よくよく目を凝らしていないと見えにくいという特殊性があります。しかし、地球環境の悪化は人類のみならず地球上の生物を、不可逆性をもって危機へと追い込んでいるのです。

コロナ禍に勝るとも劣らない環境危機は、しかし、人類の英知によってその進行を食い止めることができる数少ない危機でもあります。そのために何をするべきか、反対に何をするべきではないのか。それが国民に共有され、実行されたとき、また持続可能な社会制度や生活様式への移行がなされたとき、温室効果ガスははじめて劇的に削減されると、私は思い、そこに希望を見いだしています。

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