半裸で自らの身体に「棘付き」の鞭を打つ

隣人が次々に倒れ、死んでいく——。科学が発達していない時代、この恐怖に人は何かしら理由が欲しかった。「黒死病は神の意志である」として病にかかるのは不信仰に原因があるはず、と。そうなれば、贖罪しょくざいの気持ちを表そうと「鞭打ち苦行行進」という異様な行動が流行るのも無理からぬことでもあった。

「鞭打ち苦行行進」そのものは黒死病以前にもあった。人間が犯した罪の浄化のため、聖職者の先導のもとに口々に神の許しを乞い、反省の意思を表明していた。1260年かその前年にイタリアの都市ペルージャに現れたのが最初で、フランスやドイツ、チェコ、ポーランドなどに広がりを見せる。1261年にローマ教皇が禁止令を発したことでいったんは終息した。

しかし、人々の不安と恐怖が高まれば息を吹き返す。最初の発生地はイタリアのヴェネツィアで、ときは1348年8月のこと。黒死病が大流行の引き金だった。

ひとつの苦行団はだいたい100人規模で、徒歩での移動を重ね、都市や農村に入るときは二列に並び、先頭に旗や十字架をかざした。教会や大聖堂に到着すると広場に円陣をつくり、靴と上着を脱いで地面にひれ伏す。

犯した罪ごとに決められた姿勢を取る苦行者たちをまず団長が鞭打つ。それがひと通り終わったなら、今度は各人が自分に鞭打ちながら、声に出して許しを求める。

ここで使われた鞭は棒の先端に3本の革紐をぶら下げたもので、結び目には小麦粒大の金属製の棘が取り付けられていたというから、それで裸の上半身を打てば、肌が血だらけ、傷だらけになるのも無理はなかった。

ユダヤ人街を襲撃し、大量殺戮

狂気に満ちた鞭打ち苦行行進への参加の波は、1349年初頭には東は中欧から東欧・北欧、西はフランスからイングランドへと拡散していく。

島崎晋『人類は「パンデミック」をどう生き延びたか』(青春文庫)

1349年5月、ドイツのフランクフルトに到着した苦行団がユダヤ人街を襲撃し、大量殺戮さつりくを行ったことが重大な転機となった。

教皇クレメンス6世が彼らに異端のにおいを感じ、南フランスのアヴィニョンへの入城を拒んだ。クレメンス6世の対処はそれで終わらず、1349年10月20日には苦行団を弾劾する大勅書を発し、各司教に苦行団の移動・活動禁止といった断固たる措置を取るよう命じてもいた。

それでも苦行団が収まらないと今度はフランス王フィリップ6世に依頼して、フランスからの追放令を公布させた。これをきっかけとして、フランス国内だけでなくヨーロッパ全体で苦行団の活動が急速に下火となり、1350年のうちに終息を見た。

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