「大臣」蘇我宗家を打倒し、皇統を維持した日本

皇室の歴史を振り返ると、その断絶の危機も何度かありました。その最大の危機は6世紀末から7世紀前半の飛鳥時代、「蘇我氏の専横」と呼ばれる時代です。

茂木誠『世界史とつなげて学べ 超日本史』(KADOKAWA)

「大臣」(財務大臣)を世襲して最大勢力を誇った豪族・蘇我氏。蘇我馬子は娘を歴代天皇に嫁がせ、意に沿わない崇峻すしゅん天皇を暗殺。蘇我入鹿いるかは聖徳太子の子・山背大兄王やましろのおおえのおうを一族もろとも攻め滅ぼしました。

皇統断絶の危機を感じた中大兄なかのおおえの皇子は中臣鎌足なかとみのかまたりらと謀議の末、蘇我氏打倒のクーデタを決行します。645年、朝鮮半島からの朝貢の使者を迎える式典に蘇我入鹿が出席。国書の読み上げ中に入鹿を殺害する計画でしたが、実行メンバーが緊張のあまり躊躇しているうちに入鹿が異変に気付いたため、中大兄が最初に入鹿に斬りつけます。

※編集部註:初出時、「馬子が異変に気付いた」としていましたが、正しくは「入鹿が異変に気付いた」でした。訂正します。(3月9日13時47分)

血を流しながら入鹿が天皇(皇極女帝、中大兄の実母)に向かい、「私に何の罪がありましょうや」と問うと、中大兄は「入鹿が皇位を奪おうとしたからだ」と答えます。入鹿はとどめを刺され、その遺体は大雨の降る中庭に投げ捨てられました。

もし中大兄が剣を抜くのをためらっていたら、入鹿が逆にクーデタを制圧して大粛清を行い、自らが即位礼を行い、蘇我王朝の成立となっていたかもしれません。

三種の神器も蘇我氏の手に渡り、蘇我入鹿は編纂中だった『天皇記』『国記』を都合のいいように書き換えていただろうことは、『世界史で学べ 超日本史』に記載したとおりです。しかし皇子たちは山中へ逃れ、その後も長く抵抗して「蘇我王朝」の打倒を呼びかけ、一定の支持を得ていたことでしょう。

「軍司令官」ウマイヤ家が台頭し、カリフになった中東

これと同じことが、同じ時代の中東で起こっていました。

ムハンマドが唯一神アッラーの掲示を受け、イスラム教を開いたのが西暦622年。聖徳太子(厩戸王)が没した年でした。預言者ムハンマドは男子を失っていたため、教団指導者(カリフ)の地位は従弟で娘婿であるアリーに継承させました。ところが軍司令官のウマイヤ家が台頭し、661年にアリーが暗殺されると、カリフの地位についたのです。つまり、ウマイヤ家というのは蘇我氏です。

アリーの子のフサインはウマイヤ家打倒を掲げて挙兵しますが、カルバラーの戦い(680年)で一族とともに攻め滅ぼされました。しかし息子の一人が生き残り、アリーの「皇統」を伝えてウマイヤ朝の打倒を呼びかけたのです。激しい弾圧を受けながらもこの一族は12代続き、指導者は「イマーム」と呼ばれ、その支持者はアリーの党派(シーア)と呼ばれました。これが「シーア派」の始まりです。

シーア派最大の祭りはアシュラー祭です。これはカルバラーの戦いにおけるフセインの殉教を芝居で再現し、その死を悲しんで喪服でパレードするものです。自分の背中を鞭打ちながら、フセインの痛みを追体験する男たちもいます。1300年前の出来事を、昨日のことのように嘆くのです。